1週間が過ぎるあっという間さは、「速い」でも「早い」でもなく、「迅い」と書くべきスピードな気がします。中元です。
はい。少し厨二くさいことをいうが、本なり思想なりの影響をモロに受けた結果、最近【論語】が本当に深いことを言っているなと強く感じ始めている。
特に、高校古典に載るやつではなく、中学国語の教科書に載っているあれこれに、一見すると気づけない、深い洞察が隠されていると思う。
ということで今日は、数多のレビューの超劣化版にはなるのだが、僕自身が論語から感じる教訓について、記事をしたためてみたいと思う。
学而時習之、不亦説乎
白文でも、何となく書き下し分が頭に浮かんでくるほど馴染みがある一節だ。これが言っているのは、ざっくりどんな話なのか。引用してみる。
習ったことを、機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことでしょうか。
・・これについて、中学生の頃は特に、「復習が楽しいってどんだけ勉強が好きなんだよ」と斜に構えるような気持ちでこの一文を眺めていたものだ。
「俺は勉強は嫌いだし、復習なんてくそつまらないと思ってるから、まだまだってこと?」という不貞腐れる気持ちさえあった。色々と幼かったと、今なら思う。
だが今は、メソドスとテクネーという観点からこの一文を見つめると、言っていることの深い部分がわかるような気がしている。
人から教えてもらったり、本で学んだりした、メソドスとしての知識。これを実際に使ってみることで、自分の中のテクネーへと昇華する。このことを意味するのでは、と。
例えばスポーツで身体の動かし方を習うのも、また一つの勉強だ。しかしそれだけだと、ただ知っているだけ、つまりメソドス状態に他ならない。
その後で実際にその技を練習してみると、思った以上に難しいという気付きや、自分なりの姿勢のコツ、意識の持ちようなど、模倣を通じて更なる学びを得ることができる。
こういった経験則が、僕が思うテクネーである。これを考えれば、自然と思う。本当に楽しさを感じられる復習とは、このサイクルのことなのではないか、と?
勉強に置き換えれば、先生から教わった考え方や、参考書で知った解法を、ただ読み直すことは別に楽しいことでもなんでもないのだ。
実際に問題集や過去問で使うことで、新たな気付きや課題を発見し、自分の中で新たな学びを生み出す。その学びを復習することで、また更に学びを深化させていく。
問いと仮説の無限ループ。強い推進力をもったこの学びのサイクルに乗れたら、気付けばとんでもない場所にまで到達していることだろう。非常に憧れる流れである。
学習の理想的な姿と、その初めの第一歩に必要な考え方を、ここまで簡素に、そして同時に明文化する洞察力には、ただただ感服するしかない。
2500年くらい前にこの域に至っていたという事実に、神々しい恐怖さえちょっと覚える。あくまで単なる僕の解釈だが、自分なりにまだまだ理解に努めようと思う。
学而不思則罔
こちらの白文は、書き下すと「学びて思はざれば則ち罔し。」となり、意味はざっくり、以下の通りになる。
学ぶだけで考えなければ、本当の理解には到達しない。
―わかるような、わからないような。これについて僕は、クリティカルシンキングのことを言っているのではないかと捉えている。
誰かの意見や思想を鵜呑みにし、別のソースを基に検証すると言った多角的な学習を怠る。そのことを戒めているのではなかろうか、と感じている。
言い換えれば、頭に入れた時点で満足するのはよろしくない、という感じだろうか。”物知り”と言われ、それを褒められて育った人に、結構多い気がする。
しかしよく考えれば、コンテクスト一切関係なく、普遍的に誰にとってもそれで通じる事実なんてのは、ほぼほぼ存在しないのが普通ではないだろうか。
それこそ、人はいつか死ぬということとか、物理法則とか、それくらいしかないのではないかとさえ思えてくる。あるいは、本当にどうでもいいこととか。
例えば戦争は悪だと定義するのは簡単だが、戦争状態の最前線にいる人たちは、それを強い正義の表れと考えているかもしれない。
この戦いは正義を貫くためのものだ、自分たちを邪魔するものこそ悪であり、それに伴う犠牲は必要なものなのだ、という風に。まぁ、これ以上この方向には深めないけど。
なにか一つのテーマの学習を進める際、「わかった」状態は、次の問いや仮説とセットになるはずだと、佐渡島庸平氏は著書で説いていた。これには完全に同意する。
物質と反物質のように、「わかった」状態は、生まれた瞬間、別の疑問によって消えるもの。そう考えると、「わかった」状態に浸ることの儚さが、よく実感できる。
自分の頭で考えるとは、「わかった」という感覚に対し、即座に問いや仮説を作ることだと、僕はとりあえず認識している。そして大枠では間違ってないとも考えている。
―では、そうやって問いと仮説と検証を、自己解決し続けるのが、孔子の言う学習の真髄なのだろうか。極端な響きであるため、もちろん正解には聞こえないが・・。
実際、そのリスクにも、きちんと触れられている。子いわく、実をいうと、それはそれで非常に危ういことになるという。
そのことを指摘するのは、いわば対になっているあの言葉だ。次項では、それについて触れていこう。
思而不学則殆
一方こちらの白文は、書き下すと「思ひて学ばざれば則ち殆ふし。」となり、意味はざっくり、以下の通りになる。
考えるだけで学ばなければ、独断に陥る危険がある。
こちらもまた、一見わかるような、わからないような、である。ただ、具体例を用いて考えると、「そりゃそうだ」という納得は得られやすい。
空手を例に考えよう。強い突きを打ちたい。強い蹴りを放ちたい。大技を習得し、発動させたい。そういう夢を持ったとする。
だから学ぼう、練習しようと決めたとして、考える材料が深刻に不足した状態で修行に励むと、果たして何が起こるだろうか。
闇雲に、模倣ですらない突きを繰り返し、我流の修行を重ね、使えるのかどうか不明瞭な大技をガムシャラに練習する。この人は、どこまで強くなれるのだろうか。
学びの無い思考は、対象の習熟という本筋から大きく外れていき、とんでもなく劣化した模倣とも呼べない何かに着地するリスクをはらんでいる。
先の人は、空手ではなく、空手とも呼べない謎の流派を創設して、恐らく何の波風も立たせず、静かに消えていくだけだろう。なんとも切ない話だ。
別の例だと、「俺なら大丈夫!」という謎の自信から、過去の実績・経験・勘だけを頼りに意思決定を重ねるリーダーも、「殆ふい」と考えて良いだろう。
つまり、「わかった」状態も危険だし、「自分の中だけで考える」のも危険なのだ。学習とは、本来この2つを両軸として機能させねばならない、と。
常に新たな問いや仮説を作りながら、その材料を自分の外に求め続ける。僕は学習という行為の本質を、この短い言葉に、今強く感じている。
尚、問いや仮説が先なのか、知識が先なのかは、ニワトリタマゴな話だ。考えるだけ不毛だと思う。どちらでもいいから、さっさと立てるなり仕入れるなりすればいい。
自分が何かを知りたい、身に着けたいと思うのなら、その途中途中で、「わかった」と安心していないか、情報源を1つに絞っていないか、自問した方がいい。
一気に身が引き締まる、素晴らしい知見だと思う。
終わりに:僕が今辿り着きたいのは、「朋遠方より来るあり」。
最後に、本当に最近(というか昨日の話)、やっと意味が解って腑に落ちた一節がある。それは、「朋遠方より来たる有り、また楽しからずや」だ。
最初の頃は、「なんで急に友達が遠くから来てくれて嬉しいとか言うんだろう?なんかある種のネタとして入れたのか?」という浅すぎることを考えていた。
しかし、この「朋」の正体は何かというと、どうやら「志を同じくする者」を示すそうなのだ。あるいは、様々な思い出を共有する親友でもある、と。
そして”遠くから訪ねてくる”という部分も、実のところはさながら運命の導きによって、巡り合うというイメージに近いという。
このことは、特に【全力】で【学びを止めない人】には、必ずと言っていい程共通する現象だと僕は考えている。
フルパワーで動画をアップするYouTuberには、コラボやタイアップの依頼が殺到するのと似ている。そして同時に、昔の仲間が協力してくれる姿も、本当によく見かける。
ただパンダとして認知を集めるのではなく、志・価値観・夢を同じくする人たちが、慕って集まってくる。これが「朋遠方より来るあり」ではないかと思う。
ならば、なんと心躍る話ではないか。学習とは、自分のために行うものだと孔子も説いているが、それを重ねて成長すると、自然に仲間ができるというのは不思議な話だ。
だがこれは、例えばエンタメの世界を考えるとわかりやすい。映像作成・音楽・広報・キャラクターデザイン。その全てが、圧倒的能力を持つ”個”によって為される。
その個の才能が凝縮された作品が、不朽の名作として世に残る。では、圧倒的能力を持つにはどうすればいいかというと、努力と学習を継続するしかないわけで。深い。
ただ僕自身、人生を全て費やしても、僕”に”朋が遠方から来るレベルに到達するのは無理だと感じている。
だからせめて、面白そうな場に顔を出して、そこに入れてもらえるよう、遠方から来る朋に僕"が"なるのが、今の目標だと感じている。
それを思えば、勉強漬けの毎日は日常であり、そしてその全ては楽しい時間なのだと前向きになれてくる。
繰り返すが、これらはいずれも個人的な解釈である。だが、解釈は人それぞれで、それを批判的に見るか、賛同するかは、読み手の課題だとよく言われる。
ということで、【論語】の無味乾燥なイメージが、少しでも払拭されていたらちょっと嬉しい。では今日はこの辺で。