精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

体調不良(偏頭痛)になって、身に染みてわかったこと。 (※健康のありがたみ、ではない)

今、数ヶ月ぶりに偏頭痛発作が出ており、仕事に支障が出まくっていて非常にしんどい。オーバードーズレベルで風邪薬を服用し、なんとか身体が動いている状態だ。

 

自分の代わりがいればしれっと休むことが出来たろうが、その辺は効率化の名のもとに最小限の人数で回しているので、なかなかに難しい。


しかしどんな状況下でも、観点を変えれば見えてくるものがある。それは偏頭痛でも同じらしい。

 

実際僕は今、右のこめかみ辺りにチクチクズキズキした痛みを感じながら、同時に「あること」にも気付いている。

 

ちなみにそれは、健康のありがたみではない。もっと癖のある学びだ。今日は頭を抱えながら、それをシェアしたいと思う。

 

 

頭痛に集中させられた結果見えてくるもの。


考え方を変えれば、僕は今、頭が痛いことに意識の大半を持っていかれている。グロッキーなのに違いは無いが、マインドフルネス状態だ。

 

「今このとき」に、強制的に、純粋に、そして自然に意識が向く。今の僕には過去も未来もifも存在しない。そういう意味ではなかなかに稀有な状態ではある。

 

しかしこうして強制的な「マインドフルネス」状態になると、本当によくわかることがある。それは、普段なんと無駄なことが常時頭に浮かび続けているか、だ。

 

体調が悪いと、脳内独り言が本当に止まる。そんな余力が無いからだ。そうなって初めて、日頃の無駄な思考の多さに気が付くことができている。

 

そのモードは、ある意味非常に心地よい物だった。良くも悪くも目の前のことにだけ意識が向いている状態は、なるほど確かにストレスフリーに近い。

 

悪く言えば先のことを考えられないという意味合いにも取れるが、意識的にこの状態に持っていくことができたら強いなと、痛みに苦しみながらもそう考えた。

 

頭痛に集中させられた結果、僕はマインドフルネスの真髄の近いところにまでたどり着けたのではないかと思う。大袈裟かもしれないけど。

 

「ない」ものを「ある」と想像するのは人間の得意技だが、「ある」ものを「ない」と想像するのは不可能に近い。

 

サピエンス全史を読むと、人類は虚構を作り出すことで超大規模な集団行動を可能にし、社会を形成し、地球上での覇権を握った、といった話が出てくる

 

人権も貨幣も法律も憲法も国家も全て、よくよく考えれば虚構の産物だ。それらが”ある”のは、皆があると信じているという、ただそれだけが理由である。

 

僕らはそもそも、”ない”ものを”ある”と考えるのが、非常に得意な生き物なのだ。そう考えて良いと思う。

 

だが逆に、”ある”ものを”ない”と考えるのは、非常に苦手だとも感じている。例えば右手がある状態で右手が無いと想像するのは、もはや不可能だ。

 

それと同様に、脳内に浮かぶ思考はあるのが当然なので、その状態で”ない”状態を想像しても、難しいどころか何の実感も湧かないのは、ある意味当然である。

 

そう考えても、頭痛によってそれらが止まり、無の状態になった思考状態は、非常に価値があるモノなのではないか。

 

段々と痛さのあまり意識が朦朧としつつあるが、ここで得た感覚はなるべくしっかりと言葉にしておいて、再現性を持たせたいところである。可能であれば、だが。

 

ちなみに現時点では、呼吸でも周りの音でもなんでも、意識を向けるというより、ガッツリそっちに集中するくらいが、僕にとってのフルネスの感覚に近い

 

僕は元々感覚が過敏寄りだと今は納得しているので、リソースの7割以上を割くくらいが、皆が言う「意識を向ける」の近似値なのではないだろうか。

 

面白い仮説を拾えたのではないかと思う。それが実際どうなのかという検証は、痛みが引いた後の自分に委ねたい。

 

ということで今まで以上に謎な記事になったと思うが、今日はこの辺で。

 

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