生徒に一人、「間違い」について猛烈な抵抗、拒否感、嫌悪感を抱く生徒がいる。解いた問題に×がつくと、秒でヘソを曲げて、エスケープ行為に出てしまうのだ。
1年前は癇癪を起こして叫ぶこともあったので、その当時に比べれば多少は精神が成長したともいえる。だが完全に講師が一人ベタ付きで必要なので、なんだかな、と。
この子の成長を信じて見守るのが理想的な解なのだが、結果として周りに迷惑をかけてしまうと、誰も幸せな人はいなくなる。だから、扱いにはとても慎重になっている。
とはいえ、エスケープしているのを無理矢理戻せば暴れる。力づくで席に着かせても、じたばたする。だから、そもそも精神を逆撫でしないよう、声掛けなどに工夫が要る。
ということでここ最近は空き時間ができる度に、こういう事例をたくさん調べて、自分なりに研究を進めてきた。
その内いくつかの仮説を実際に試した結果、効果があったり無かったり、ちょっとした知見のネタが貯まってきている。
今日はその一部を、一旦頭から棚卸するため、書き出しておく。
間違いを”突き付けない”。
子どもの心理は体系的に勉強したことなど無いので仔細は違うだろうが、間違いを指摘された際に感情が昂るのは、ざっくり小3~4までは、普通のことらしいのだ。
もちろん程度によっては発達障害の可能性もあるのだが、適切な声掛けを心がけながら、少しずつ受け止められるようになるのを見守るのが、結局効果的なのだという。
その根本にあるのは、間違えたという恥に対する嫌悪感・不快感であり、かつそれを発露させる方法が癇癪しかない、というただそれだけなのだ。
(余談だが、子供の精神年齢や器の成長については、母親からの愛情表現がかなり重要となってくるそうだ。ここが希薄だと、自己愛型の性格になり易いという。怖っ)
話を戻す。となれば、「はい、違う!」という言い回し、×の記号、そういった「お前は間違えている」といったものは全て、癇癪のトリガーになり得ると言える。
色々なサイトで提案されているのは、声掛けのセリフを変えることだ。当人に恥の感情を湧き起こさせないよう、こちらにできる工夫をするという話。
これの一例は、こんなのがある。まずは列挙しよう。
① 「違う」ではなく「惜しいね」という
② 間違っている問題には×をつけず、空白にする
③ 合ってるも間違ってるも言わず、一緒に解きなそうという
④ 1問間違えたことより、9問当てたことを褒める
これらを分解すると、①~③は短期のテコ入れで、どちらかと言えば癇癪を起こさないための一工夫という感じだ。
一方、④は本当に長期の話であり、間違えることは恥ずかしいことでもなんでもない、成長の糧だという風に、その子の解釈を更新するための一助という感じである。
これらについて、効果は一応、あると思う。なぜなら、全て実際に試したからだ。
×なら秒でヘソを曲げて、ゲームで負けたときの子みたいな奇声を上げそうになる子でも、「惜しいね」と伝えたり、〇も×もつけずに返したりすると、踏みとどまる。
④については、それでも完璧じゃないことに苛立っているようだが、これはある意味自我の成長に必要な悔しさだと、前向きに考える子育て指南書が大半だ。
余談だが、子供の感情の発露は、落涙➡癇癪➡気落ちという順で変わったり、個人差があったりするかのように感じている。精神年齢と比例するということだろうか。
その子が次にどのフェーズに行くかはわからないが、他の生徒に迷惑さえかけていなければギリギリ許すという風に、担当する人間の器が問われそうな気もしている。
僕自身、確かにゲームで死んだときは、結構高学年まで大暴れしていた自覚がある。思い出すたびに死にたくなるが、今は流石にやらないからいいかと思うことにする。
その子もいずれ、暴れていた頃の自分を「幼かったな~」と笑えるようになるだろうか。まぁ、そこまで思いを馳せるのは、単なる妄想なんだけど。
では今日はこの辺で。