ここ最近愚痴っていた通り、校舎運営、特に生徒制御にはずっと頭を抱えていた。正確には今も抱えているので、現在進行形である。
そのために色々と考えては行動し、観察してはまた手を考えて実践し、底なし沼に沈まないよう藻掻くように、前進しないのに必死に動かねばならない状況を過ごしている。
昨日も、生徒が集まらずに校舎が閉校となる悪夢を見てしまった。救いはどこになるのか、そんなものはないのか、諦めたり頭を抱えたり、そんな風に忙しい。
―そんな僕だが、今週の出来事をふと振り返ると、そういった苦しみとか、重圧とか、苛立ちを、そこまで感じていないことに気が付いた。
もしかしたら目を逸らしているだけかもしれないし、気のせいなのかもしれないが、体感としてそれを強く感じている。
では、普段の過ごし方と何が違ったか。心当たりは、一つだけある。それは、今週は授業に対し、ある意味数学者が数学に打ち込むように、没頭した点だ。
今日はその気づきを文にしておく。
伝えたいメッセージがあるから。
いざ書く前になって、「あっ!」と気付いたことがある。それは、僕が常々「こわいなー」と思っていた、手段の目的化という罠に関することだ。
「大きな嘘の木の下で」という本で知った言葉なのだが、簡単に言えば目的のための手段という構図がいつの間にか、ただ手段を追うことになった状態を指す。
売り上げを増やすという目的(これは厳密には目標だが)のために、生徒数を集めるという手段を採る、というケースが非常にわかり易い。
これが拗れると、「生徒数を増やさないとダメなんだ!」とばかりに、無茶なキャンペーンとか、謎の押し売りに手を染めて、気付けば会社が衰弱する・・。
こんな例、山ほどある。いわば、集団で視野狭窄バイアスに憑りつかれている状況と言った方が自然かもしれない。
正直、売り上げを増やすなら、無駄な支出を切り詰めるとか、客単価を上げるとか、やれることは他にもある。しかし手段が目的化すると、これになかなか気づけない。
その怖さは”知ってはいた”のだが、自分がそれに陥っている可能性は、露ほども疑っていなかった。バイアスの怖さと面白さは、こういうところにあると思う。
ある意味ただの逃避に近いが、改めて本分たる授業作りに没頭して初めて、自分がこのバイアスに陥っていることに気付いたのだ。
授業作りに入れ込んでみると、伝えるべき知識、メッセージ、教え、カラクリ、その辺が次々に浮かんでくる。アイデアもまた同様だ。ネタも自然と閃いてくる。
それを板書として裏紙に展開し、構成を考えて、準備を整える。新人の頃みたいに、他の仕事を放り投げて取り組んでみた。
―すると、いざ授業に臨むとき、やんちゃ坊主に対する自分の声掛けが、自然と変わっていることに気が付いた。
「どうしても教えたいことがあるから、数分だけ聞いてほしい」という風に。そう諭すと、生徒が素直に、耳を傾けてくれたのだ。
胸を張って言うが、こちらは教えるプロだ。納得して、その通りにしてくれたら、解けない問題がわかるというステップに持っていくことは、狙ってできる。
そしてずっと忘れていたが、生徒制御とは、本来はそのための手段だ。自分が伝えたいテーマを伝え、教育を施すための、心がけの1つに過ぎないのである。
フローチャートに直すと、ざっくり以下の通りだ。
目的:定期テストの点をアップさせる
目標:そのための知識や教え、テクニック、勉強法を確実に伝える
手段:話を聞かせる、集中力を持たせる小技を使う・・・・・
という風に。僕が嵌っていた「手段の目的化の罠」は明確だ。生徒を静かにすることそのものが目的になっており、その先が一切なかったのである。
自分の愚かさに意気消沈してしまうが、しかし、僕がずっと苦しんでいたというか、腹落ちできていなかった違和感の正体が、また一つ理解できた。
と同時に、あれほど卓抜した教員たちが「授業」を推す意味がよく分かった。このバイアスの存在を、陰ながら指摘していたのではないか。そう思えてくる。
手がかかる生徒と相対していると、この子らの成績を伸ばすこと以上に、他の生徒に迷惑を掛けないよう、なるべく平穏にさせときたいという思いが募ってくる。
その節がある際は、逆にその子に対し、徹底的に授業を作ってみることをオススメする。そうすることで、一つ道が切り開ける、かもしれない。
有意義な発見だった。気に病むつもりは無いが、少しだけ反省しておくことにする。
ということで今日はこの辺で。