精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記131】"Quiet"読書感想ブログⅥ ~陰陽~

内向的な人に向けた助言の本。最初はそう思っていたが、どんどん深い意味が登場し、意外な喜びを感じている

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

外向性至上主義の否定、オンラインとオフラインの自分の在り方、等々。「お金2.0」のような話も出てきて、またまた色んな知識が繋がることに、ただ驚く。

 

今週もそんな内省の旅へ、レッツゴー、である。

 

 

6月12日(月) 対極を集めよ

 

内向的な人にとって、無理をして外向性を身に着けるのは、ある意味二流だという。むしろ、まずは内向であることを活かし、圧倒的な質の物を作ることに特化する。

 

そうしてできたものを、魅力たっぷりに語ることができる能力を持った人と組む。それが一番建設的な作戦、という風に紹介されていた。これには割と同意する。

 

全部ひとりでやるのは美徳ではあるが、やはり井の中の蛙だし、視野狭窄にもなりやすい。リスクを取ってでも人と組まねば、成長は鈍化する。

 

僕は本来苦手であることを、無理してセルフでやろうとしていないだろうか。不安になったので、ここは折に触れて反省したいと思う。

 

6月13日(火) 全部できろ教のめんどくささ

 

内向的な人は外向性を持つことを求められる。最初から外向性が高い人は、才能あるからそれでよし。こんな矛盾は、小学生の頃から感じていた

 

国数英理社+美術体育。全てできて初めてエリートなのだ。むしろ、全部4とか5じゃないとそれは努力不足。そういう成績のつけ方も、すごく嫌いである。

 

国数英はさておき、あとの物ができる意味はどこまであるのか。絵が描けない?Midjourneyにお願いだ。音楽が書けない?今は作曲さえAIができるそうだよ。

 

社会とは本来、長所を活かしあって、より多くの、より優れた成果を生み出す場だと思う。一方全部できろ教は、それとおもくそぶつかっていると言える。

 

できんもんはできん!これでラクになると千原せいじ氏は説いていたが、まさにその通りだと思う。全部はできん!みんなこう思えば、肩の力が抜けるだろうな。

 

6月14日(水) 補い合うために必要なもの

 

助け合いは美徳だとされる。だが、ある程度人間のレベルが上がってくると、助け合うのにも条件が出てくると感じている。

 

わかり易いのはお金との交換だ。例えば僕は保険の知識が皆無であるが、だからといって保険に詳しい人について「助け合いだ、教えてよ!」と言うのは虫が良すぎる。

 

対価として差し出せる何かが無い限り、助け合いではなく搾取となる。そして本当に能力が高い人ほど、自分が搾取されないよう動くことに極めてシビアである。

 

では、お金以外で、助け合いをしてもらうための条件は何があるのか。多動力などで指摘されていることだが、まずは得意分野で突き抜けることがそうらしい。

 

その上で、自分が突き抜けたスキルを必要とする、また別の突き抜けた人と組むこと。それが、次のレベルの助け合いになるのだそうだ。

 

雄弁家とライターが組むと最強のスピーチが生まれるのと似ている。貸しと借り、義理と人情はウェットな部分に思われるが、だからこそ非常に大事なんだと改めて思った。

 

6月15日(木) 続・補い合うために必要なもの

 

少しばかり根性論寄りになるが、補い合うために、協力関係になるために必要なものがもう一つ書かれていた。それは「器」だ。

 

器が小さいと、相手の強みを肯定しきれず、例えば以下のセリフを言ってしまう。「お前は確かに数学ができるが、英語も伸ばさないとキツいよな」

 

これは受験であればその通りかもしれないが、仕事などの関係だと、まぁまぁウザい。実を言うと、それが課題であることなど、当人が一番わかっているわけで。

 

しかしこれを自動的に発動できる人は、相当器が大きい。つまり傑物だ。存在そのものが希少である。僕は一生かかっても、そのレベルに行けるか怪しいと踏んでいる。

 

「器」。こういうところでも出てくるというのは意外だった。奥が深い言葉である。

 

6月16日(金) 陰と陽

 

外向的である人は既に社会から認められているからどうでもいいかもしれないが、内向的であることは矯正すべき性格としてカテゴライズされていると思う。

 

内向的であることは強みじゃなく弱点である。だからそれを打破せねば。そんなことを何度も聞かされたし、それによって何度も自分を責めた。

 

それを肯定するには、2つの方法があると思う。まずは自分の解釈を変えること。そしてもう1つは、陽の側の人たちから、強みとして認識してもらうこと、だ。

 

いわゆる不良漫画を読んでいると、主人公格のワルには大抵、「なんでお前が舎弟なの?」というべき奥手でひ弱なキャラが居る気がしている。

 

しかし主人公はそのひ弱なそいつを絶対に肯定し、時には信頼し、果てはそいつのために身体を張って血を流すこともある。なんと胸が熱くなる話だ。

 

そこまでフィジカルな話でなくとも、会議の場とかで意見を尊重する形で、大事にすることはできると思う。陰と陽。それが混ざれば一つの傑出した何かに繋がる。

 

そう信じさせられる話であった。

 

6月17日(土) 対という関係

 

自分と反対の性格の人間について、羨望したり嘲笑したりするのではなく、その人となりを観察し、理解する。

 

そうすることで、自分に欠けている長所を持っているとか、尊敬できる点とかを認知でき、そこを取っ掛かりとして付き合いが始まり得ると言われていた。

 

無理のない範囲で外向性や内向性に付き合い、さらに理解を深める。それは同時に、お互いの違いを明確にすることにも繋がる。自己理解もまた深まっていくのだ。

 

魅力的なキャラクターには大抵、対になる友人が存在する。そのキャラとの対比により、お互いが際立つ。そう思えば納得だ。

 

あれはフィクションの中だけの話ではなく、むしろ人間関係として自然な形なのではないだろうか。だから違和感なく、感情移入することが可能となる。

 

思うに不思議なもので、僕には同類より、どちらかと言えば明るいとか、必要な場面では社会性を発揮できる友人が多い。

 

僕は自分に無いものを持つ人を、無意識に欲していたのだろうか。そういう観点から交友関係を眺めたことなどなかったので、少し面白いなと思った。

 

6月18日(日) 輝ける場

 

内向的であることは日陰に生きることを意味する・・という、悲しくもウンコみたいな被害者意識全開の思い込みをする人がいる。まぁ、昔の僕だ。

 

斎藤一人さん的な言い回しをすれば、マグロが一番速いのは水中の話であり、陸上に放り出したら死んでしまう、という比喩が近い。

 

つまり当人が輝ける場はあくまでスポットスポットであり、その人が魅力的に映らないとしたら場所が間違っているだけで、能力不足とは限らない、という話だ

 

例えば超絶根アカのギャル男を静かに美術を鑑賞する会に放りこんだら、多分地獄絵図になる。(面白そうだが)

 

内向的である僕らは、なぜか外向的な人が有利になるステージにばかり放りこまれるからそういう場所があることを認識することさえ難しい。だが、確実にあるのだ。

 

最近は、合コンとかパーティーみたいな、身の丈に合わない場所へ無理していくことを完全に止めた。その代わり、同類の集まりには顔を出すようにしている。

 

世間が狭くなるというもっともらしいことを助言する人もいるかもしれないが、知らないコミュニティが山ほどあるのはお互い様なので、どうでもいいと思う。

 

輝ける場を、探すか、創るか。そろそろ後者に取り組んで、四苦八苦しておきたいと思うのは、僕がまだ若いからだろうか。

 

―ということで今日はこの辺で。

 

 

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