言葉は悪いが、「ウザい先生」という烙印を持たれる人がいる。ウザいと思われているので、当然生徒の人気は、全体的にはイマイチな人たちだ。
僕がこの仕事を始めてすぐは、そういった先生たちをいわば反面教師として考えて、そこから遠い指導を行うのが正解だと、無意識下で考えていたと思う。
しかしここ最近、僕らが「ウザい」と思っていた先生方は、実はプロの教員そのものだったのではないかと、考えを改めつつある。
そして今の僕に欠けているピースの1つは、ある意味この「ウザさ」ではないか。そんな風に思うところもある。
今日はそんな話を書いてみる。
「ウザい」とはなにか。
まず意味合いにブレがあると話が変わるので、定義からしっかりやっておこうと思う。調べてみると、「ウザい」は「うざったい」の略語だとあった。
そして「うざったい」は方言の一つであり、「鬱陶しい」という言葉と意味合いは同じなのだという。
そのため、そこから類語を並べると、ネガティブな意味合いのそれが大量に並ぶことになってしまう。以下一例を紹介しよう。
うざっこい/うぜえ/うざったらしい/鬱陶しい/邪魔/邪魔くさい/煙たい/煩わしい/面倒/面倒くさい/めんどい/億劫/厄介/迷惑/うんざりする/げんなりする/辟易する/嫌気がさす/しんどい/かったるい/だるい/くたびれる/鼻につく/飽き飽きする/くどい/しつこい/くだくだしい/くどくどしい/うるさい/耳にタコができる/耳タコ/耳障り/目障り
もちろん僕もこういった意味合いを「ウザい」という語から感じてはいた。だが今回は、「なぜウザいと思うのか」の問いを起点に、解像度を上げておきたいと思う。
単に授業がへたくそとか、人格否定的な言い回しをするとかなら、「ウザい」を取り越して「嫌い」とか「嫌悪」とか「不快」という表現をすると思う。
しかしながら、そういった人としてどうなんだ的ニュアンスは、僕が頭に浮かべた先生たちからは醸し出されてこない。
それよりも、「確かにそれはそうだな」と納得させられるようなことを言われたという風な、幼心にも「論破された」という感覚が、「ウザさ」にはあるように感じる。
あるいは、守らねばならぬルールを破ったときの咎めという風に、こちらに非があるケースを指摘された際もそうだと思った。
すると、段々と共通点らしきものが見えてきた。一旦文にすると、こんな感じである。
集団や授業を運営する際に容認するべきではない言動を、一切の例外もなく、感情的にならず、淡々と指摘できる先生。
ここまで考えれば、なぜこの方々を僕は今なら完璧だったと思えるのか、その理由がおぼろげながら見えてきた。
続いてはそんなお話を書いていく。
「ウザい」、けど・・・。
その先生たちが担当する教室は、いつでも静かで、統率が取れており、仮に少し乱れても、少しの指導でサッと元に戻ることが特徴であった。
時折賑やかなときがあっても、それは例えばグループワークのディカッションという風に、きちんとその理由と場が用意されていたという風に、今は思う。
確かに、生徒と近い立場と目線の先生の方が、表面上の人気は高いだろうが、それに対し統率力などが伴うかどうかは別の問題である。
その先生は生徒から「ウザい」と思われていたかもしれないが、それと引き換えに、学習環境として、学校に求められる雰囲気として、完璧なものを体現していたのだ。
そういえば、僕はそういった先生方に「授業が分かりにくいなー」と言った感想を持ったことは無い気がする。
元々聞いていなかった可能性も高いが、授業に関してもプロであり、それによって「能力もないくせに面倒なこと言いやがって」という反発を殺していたのかもしれない。
荒れから立ち直った学校の例を読むと、まず第一に授業が上手であることが必須だと、どの本にも資料にも書いてある。
生徒制御といった所作は所詮は小手先で、起点となるのは授業のウマさ。教員の力量は全てここに集約されるとさえ言われていたほどである。
そして時間差で、その凄さと有難さが実感できる。まさに教師の鏡だ。20年近く経ってから、ウザいといううんこみたいな感想を脱するに至り、少し嬉しく思っている。
そう思えば、僕は10年後、20年後、ウザかった講師だと言われるだろうか。多分言われないだろうな。まだ僕は、忖度をして、嫌われたくないという気がしているからだ。
しかし僕はもういい年だ。人気取りなんてのは若い講師にもっと任せて、僕はもっとウザがられる立ち位置を、狙って体現せねばならないのだろうな。
これもまた一つの分業。徹することがプロなのだから、徹しない手はない。まずはこれを、講師引退の第一歩に代えるとしよう。
ということで今日はこの辺で。