今の校舎を引き継いで2ヶ月が経とうとしている。実際、色々と試したい施策は用意しているのだが、目先の仕事に忙殺されている状態で、なかなか着手できず口惜しい。
最近は僕の心も落ち着いたが、すごく手が掛かる子たちは、本気でやんわりと退塾を促してやろうかと思うほど、受容することができず悩んでいたものである。
時間は掛かったが、ささくれ立った僕の心を鎮めるのに一役買ったのは、仏教で説かれている、ある教えだ。
それこそが表題の通り、「一の矢は受けても、二の矢は受けない」というものだ。これを少し自分なりに解釈を変えたものを、なるべく心に留めている。
今日はそんな話である。
出来事に不必要な感情を絡めない。
そもそも、この教えはどんなものなのか。すごくわかり易い説明があるので、そのまままるっと引用しておく。
お釈迦さまは「悟りを開いた聖者」と「悟りを開いていない凡夫」との違いを、第一の矢と第二の矢で例えました。
何か物につまずいた時に「痛い!」と思う。
美しい花を見て「きれい!」と思う。
これが第一の矢です。
この第一の矢は、悟っている人も悟っていない人も、同じように受けます。
問題は第二の矢です。
「痛い!」と思った後に、「だれだ!こんなところに物を置いて!」と怒る。
花を見て「きれい!」と思った後に、その花を摘んで家に持ち帰りたくなる。
これが第二の矢です。
「痛い!」と感じた後、次に怒りに移行する。すると怒りはどんどんエスカレートし、いつまでも心は不快なままになる。
「きれい!」と感じた後、その花が欲しい!となり、花瓶に飾りたい、庭で増やしたい、と執着の心がはたらき続ける。
「聖者も凡夫も第一の矢を受けるのは変わらない、しかし悟った聖者は第二の矢を受けない」
お釈迦さまはそうおっしゃいました。
一の矢とは、突発的な感情だと考えている。本能と言ってもいい領域の話なので、これを食い止めるとは、つまり死んでいることと同義なのかもしれない。
しかし二の矢とは、意識や問い、仮説の力で食い止めることができるはずの、その場に不必要な感情や論理だと言える。
例えば生徒がはしゃいでいるのを見て指導を入れるのを一の矢と考えるならば、過去の事例や別のストレスをそこに絡めるのが、二の矢である。
目先のことに怒っているはずなのに、気付けば過去のヤンチャやイタズラの記憶が頭に浮かんできて、滅茶苦茶腹が立ってくるのと同じだ。
あるいは誰かに怒られた際、過去の失敗の記憶を想起して、不必要に自分を責めるというのもそうかもしれない。
一の矢は、生きている限り、絶対に受ける。しかし、二の矢は心掛け次第で、受けずに済む。こういう教えのことだと、僕は感じ取っている。
実際先の話は、こんな風に続く。
痛い!」という思いを、怒りや苦しみに発展させてはいけません。
「きれい!」という感情を、欲望や執着に発展させてはいけません。
第一の矢だけで止めましょう。
「悲しい!」と思うのは良いんです。
しかし、その次、次の心、「不幸だ」と過度に落ち込んだり、「自分のせいだ」と自分を責めたり、そういう第二の矢を受けないように気をつけましょう。心をしっかり保ちましょう。
「痛い!」「きれい!」「悲しい!」「楽しい!」「びっくりした!」「何か言われた!」
これだけで良いんです。
第二の矢を甘んじて受ける必要はないのです。
「ムカついた!」→「イラっとした!」→「許せん!」→「怒鳴ってやる!」
ここまでいくと、何本の矢を受けているのか、分かったものではありません。こんな人は、幸せにもなれないのです。
すごく含蓄のある言葉だ。この域に達するまであと何年かかるのか、そもそもそれは可能なのかさえ遥か彼方に感じられるが、それでもずっと心に留めたいと思う。
学べば学ぶほどわかる、「いいじゃない」の線引き。
自分にコントロールできないことを止める。そのために必要なのは、線引きだ。どこまでは一の矢で、どこからは二の矢なのか。その境目を自分なりに作りたい。
いわば、自分なりに「仕方ない」と思えるラインを言語化する。最初はそう思っていたのだが、辞書を引いて、驚いた。
なんと、結構ネガティブな意味合いだというのがわかったからだ。引用すると、こんな感じ。
1 どうすることもできない。ほかによい
がない。やむを得ない。「―・い。それでやるか」
2 よくない。困る。「彼は怠け者で―・いやつだ」
3
ができない。たまらない。「 に会いたくて―・い」
・・仕方ないという言葉には、どこか後ろ向きな諦めの意味が乗っている。僕が目指したいのは、前向きな諦めである。もっと相応しい言葉を探さねば。
そんなとき、確か「大河の一滴」で知った、「いいじゃない」という言葉をふと思い出した。そうやって受け入れてみることを、思考なりなんなりの起点にする、と。
例えば、生徒が課題に取り組むまで20分くらい校舎をウロチョロして逃げ回っても、保護者の了承を得て、かつ他の生徒に迷惑をかけてなければ、「いいじゃない」、と。
そう思うと、僕が責任を”本当に”追わねばならない場面が、意外と少ないことが見えてくる。雨が降っても自分のせいというのは心構えの話であり、実際は違うのだ。
ADHDを始めとする発達障害を持っているとかいないとか、こちらが思うやるべきことに着手できないとか、それはそれで、「いいじゃない」。
色々と学べば学ぶほど、当人たちは悪意ではなく、自分では制御できない衝動や興味、好奇心によってあの言動に出ていることが分かってくる。
長期で寄り添っていくことが前提の話に、短期でテコ入れをするという考え方が、既にどう考えてもおこがましい。
だからこう唱える。「いいじゃない」。別に、いいじゃんか、と。押し付けられる正義は迷惑なのだ。それは子供たちも同じであろう。
相手を理解することは、腹を割って話し合わねば、絶対にできない。だから、どうしても本質とはズレてしまうが、広い括りで捉え、学び、胸の内のヒントを知っておく。
そう思っていると仮定して、その子と接すると、色んなことがどうでもよくなる。それもこれも、そうしたいからそうしてしまうんだろうな、と。
犬がついベロを出すように、痒いとついつい掻いてしまうように、それらはどうしようもない行動なのだ。他者の学習を妨げなければ、もういいと思うことにする。
無責任だろうか。だが正直、全部自分が思うようにできると考える方がどうかと思う。僕らは神じゃないんだから。
前向きに諦めて、一の矢で留める。それくらいの鷹揚さが、今の僕には大事なようである。
では今日はこの辺で。