前々から気になっていた「風の歌を聞け」という小説が、会社の本棚に置いてあった。それを勝手に拝借し、ここ数日、寝る前の時間を活用し、貪るように読んでいる。
悲しいかな、僕の貧相な文学に関する素養では、一読しただけでは何を伝えたいのかを汲み取り切れなかった。そして今は、そのまま二周目に入ったところである。
―そんな風に、これを毎日15分程度読む生活を4~5日送っているのだが、その全ての日で経験することとして、この本を読んだ直後は、すごく不思議な感覚になる。
世界から音が消えて、自分の脳内に湧く言葉も、見ている景色も、全てが頭の中で無意識に小説っぽい言葉に置き換えられていくのだ。
皿洗い一つとっても、「冷たい水に皿を浸し、泡立ったスポンジで擦る。洗ってからしばらくして、また明日も手が荒れるなと、嘆息した」と考える自分がいる。
そしてこの感覚が、ものすごく心地良い。我を切り離し、対象は対象なんだと徹底的に距離を置いた感覚。ここに何かしらの、ストレスを減らすヒントがありそうだ。
今日はその感覚を、僕なりに考察してみた記事を書いてみる。
「たのしむ」ってなんだ?
この感覚を無理矢理、近い意味の言葉に落とし込むとどうなるだろう。「俯瞰」「客観」とかそんな感じだろうか。遠からず、近からずという響きである。
そしてどことなく、僕は現在の様子を「たのしんでいる」という、いわば漠然とした感覚を持っていることにも気が付いた。なぜそう思ったのだろうか。
昔から、「どんな苦境も、ストーリーのスパイス。演じるつもりで考えればいい」といった思考をよく読んできたが、どれも腑に落とせず、気に留めても無かった。
しかしながら、その意味が、ようやく理解できてきた気がする。それはつまり、視野狭窄バイアスを外し、状況を俯瞰・多角的に見るための問いではないか、と。
主観的・感情的である限り、物事は基本的に好転しない。悪口を言い続ければ、面倒な相手は変わるのと期待するのに等しい。
たのしむためには、完全に没頭するのも大事だが、例えば小説を読むときの様に、「登場人物」という風に距離感をもって読むことも、本当に味わうためには大事だと思う。
「たのしむ」とは、客観視ありきの向き合い方。そう考えたら、「演じればいい」「幽体離脱して上から自分を見ればいい」という助言の意味合いが更新されてくる。
そういえば、三人称視点で自分を分析したりナレーションしたりするのは、認知行動療法の一つだったように思う。ストレスを大幅に軽減させる効果が期待できるそうだ。
三人称視点というのがしっくりこないが、小説を書くつもりで、自分を登場人物のように描写することは、その視点と同じことを言っていると思う。
「金閣寺」を読んだときも似た感覚は感じたが、「風の歌を聞け」は、すごく会話がテンポよく流れることから、一層客観的な視点を得られやすいと感じる。
一人称視点で自分じゃない誰かの物語を観るかのように、目の前の出来事とどこか距離を取って接するようにしたい。できれば、意識的に。
それをコントロールできるようになれば、僕は本当に世の中を「たのしんで」眺めることができるのではないかと、淡い期待をしている折である。
どんな出来事も、入れ込めば悲劇で、遠ざかれば喜劇。誰のセリフか忘れたが、そのくらいの捉え方が今の僕にはしっくり来ている。
では今日はこの辺で。