飲酒日数が連続してくると、午前中のイライラも比例して強まると気付いた中元です。今飲みかけのボトル空けたら、またオフにしようっと。
はい。【観察力の鍛え方】にも書いてあるのだが、何かを観察しようとする際は、自分にどのバイアスが掛かっているかを認識しないと、意識が歪む可能性が高くなる。
例えば誰かに褒められた後は、身に起こる全ての出来事が幸運に思えるが、誰かに怒られた後は、他者の言動全てが自分への非難に聞こえる人もいると思う。
これこそが、意識にバイアスが掛かった状態の一例だ。楽観にせよ悲観にせよ、感情が思い切りブレているので、客観的な観察が困難になるというわけだ。
そしてそんなバイアスの内、最近僕が意識して使いこなさねばならないと思うものは、実は名称が定まっていないっぽい、【過去美化バイアス】だ。
この言葉にピンとこない人も、【思い出補正】と言われれば「あのことか」と合点がいくのではなかろうか。
これも、その意味することを考えると認知バイアスの一種であり、つまり認知をゆがめている心のありようだと言えるわけで。
そしてこのバイアスも、きちんと対策を講じねば、特に過去の出来事の検証や観察が、とても歪められてしまう。手放しで放置するには、ちょっと怖いのだ。
ということで今日は、それをテーマにした記事をチョイと、書いてみようと思う。
【過去美化バイアス(≒思い出補正・バラ色の回顧)】とは?
説明の必要があるのかというほど馴染みのある用語だが、調べてみると結構面白い考察や定義が見つかったので、改めて紹介する。
簡単に言えばやはり、「過去に起きた出来事を、無条件で素晴らしかったものとして肯定するような考え方」という意味合いに落ち着く。
FFⅩのセリフだったと思うが、「思い出は優しいから甘えるな」というフレーズは、このことを端的に言い表していると思う。
確かに僕自身、社会人になってすぐの頃は、大学生活が恋しくて仕方がなかった。人生のピークはすでに過ぎ去り、あとは耐えるだけの人生かと絶望したほどだ。
学生の頃にも不自由な点はあったし、僕という人間も今以上に無知で、未熟だったはずなのに。そういった要素がごっそり抜けてしまうのが、このバイアスの特徴と言える。
ちなみに英語版Wikipediaでは、【Rosy retrospection】という語句で紹介されている。これに忠実に訳すなら、【バラ色の回顧】ということになる。
ではなぜ、人は過去をバラ色のものだと想像しがちなのか。これについては、Wikipedia
に書かれていた定義が、かなりわかりやすかったので、丸ごと紹介しよう。
some people theorize that it may in part serve a useful purpose in increasing self-esteem and a person's overall sense of well-being.
(バラ色の回顧は)その人の自己肯定感や全体的な幸福感を高めるという、ある程度実用的な目的を果たすのに役立っているかもしれない、と理論立てている。
―例えば、過去を肯定することは、その当時の自分の肯定のみならず、そこから連続する現在の自分を肯定することにもなる。
裏を返せば、バラ色の回顧をする人は、現在に対し不満・不幸という印象を抱えている可能性が高いということだ。
そういう潜在意識があるとき、人は過去を強く肯定し、遠回りをしながら、今の自分の重要感を満たすようなのだ。結構これは、腹落ち感が強い説明だと思える。
だが結局それは、現実から目を反らしているのと同じであり、それを変える可能性の放棄に他ならない。思い出話が多い人が煙たがられるのは、この辺に原因があるだろう。
また、「あの頃は良かった」と無条件で信じ込んで、現状を無視して過去に自分や組織を逆戻りさせようという人も、その結果は芳しくないだろう。
ちなみにWikipediaにはハッキリと、「これはバイアスだ」と書かれており、その特性を理解しておかないと、簡単に認知をゆがめられてしまうのは明白だと言える。
・・・ということで駆け足かつ、そこまできちんと情報をまとめたわけではない散文的な項にはなったが、この辺で説明を終えることにする。
では続いて、このバイアスを打ち破るための方法について、すごくシンプルで効果的な方法を書いていこうと思う。
「あの頃はよかった」という感覚を打ち破る方法。
まず日頃からできる対策としては、その都度気持ちをきちんと言葉に残しておくこと。日記帳でも、ブログでも、何でもいい。とにかく記録を蓄積しておくのが大切だ。
例えば僕自身の体験談で言うと、会社で初めて、あるイベントをオンラインで実施したときのことを思い出す。
僕がその実施責任者だったのだが、不慣れゆえに全員苛立ち、焦り、無用なストレスや理不尽に晒され続けたことを記憶している。
しかし人間とは不思議なもので、一度そのイベントが何とかなってしまうと、「なんだかんだで、悪くない経験だったな」という肯定モードに入ってしまう。
まさに「思い出補正」だ。初めての実施で、改善点が無いことなど、絶対にありえない。普段なら持てる簡単な視点も、ごっそり抜ける自分に慄然とした。
ただしこのときは、「絶対に思い出補正させたくない」という意思が最初からあったため、一番忙しいときの気持ちを、Wordに書き殴って残しておいた。
それを読むと、バイアスによって削ぎ落された感情・改善点が蘇ってきて、遥かに客観的で有意義な検証ができるようになったのを、まだ覚えている。
正直、一番確実なのは、こんな風に記録を残しておくことである。それに気付いてからは、折に触れてこのブログを読み返すなど、バイアスに”気付く”工夫を重ねている。
ただし、日頃からこれを継続できる人がレアなのも、承知している。僕にだって、ある期間より以前の記録はないわけで。
そんなときは、過去の検証を客観的にすることが、今のところの対策である。【観察力の鍛え方】に合わせるなら、「過去のディスクリプション」がそうだ。
例えば大学生の頃は今より良かったという感覚があるとする。こんな場合は、ひたすら問いを重ねるなどして、そのときの状況を言葉にすることから始めるのだ。
今よりも自由だったと感じているが、それは本当だろうか?当時はそれを退屈だと感じていなかったか?またそれと引き換えに、金銭的な自由はなかったのでは?
あの頃みたく、毎日同級生や先輩と晩御飯を食べに行くことが自分にとっての本当の幸せなのか?むしろそれを言い訳に、現状の行動不足を肯定していないか?などなど。
そうやっていくと、大抵過去は過去で悪いこともあったし、また今は今でそこまで暗澹とはしていないよねという、ニュートラルなところへ着地するものなのだ。
気持ちが落ち着いたころを見計らって、「ではどうする?」と自分に問うと、そこから本当の検証がスタートする。今のところは、これがしっくりと来ている次第だ。
やたらと過去を美化する自分に気付いた際は、ぜひとも試してみてほしい。では今日はこの辺で。
おまけ:参考サイト一覧。