精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「コントロールできないことは考えない」という言葉の、”本当の”意味合いとは?

僕の頭にまとわりつくストレスの9割は、考えても仕方が無いことを考えているせいで立ち込めてくるものだと考えている。端的に言えば、つまり杞憂なのだ。

 

こういう自分の悩みを思うにつけ、「コントロールできないことは考えない」と割り切れる人がうらやましいと、本当に思う。30を過ぎた今でも、心の底から思う。

www.youtube.com

 

だからその一端でもわかれば良いなと淡い期待を込めて、ドストレートに「コントロールできないこと 不安」という言葉で検索をかけてみた

 

すると、似たようなメッセージを語っている人として、イチローのことが紹介されていた。

www.hayakawabooks.com

 

コントロールできない物事に悩むのは無意味である。スパッとそう割り切っており、単純に名人技だ、生まれ持ったメンタリティが違うんだと、少し諦める気持ちもあった。

 

しかし、この中で紹介されていたストア哲学なるものは、ものすごく興味がそそられた。すごく実践的で、現実社会でも通用する思考が体系的にまとまっているという。

 

本当に表面だけなぞっただけで、ぶっちゃけただの雰囲気しかわかっていないのだが、その哲学によるコントロール不可である物事の解釈は、すごく素敵だなと思った。

 

今日はそんなお話をば。

 

 

コントロールできないこと”は”考えない。

 

僕の心に染み入ってきたのは、以下の部分だ。ここを読んだとき、大袈裟でもなんでもなく、長年の霧が突如と晴れたような感覚を抱いた。

 

ストア哲学が人の心をとらえるのは、実践的な哲学だからでしょう。

 

すでに述べたコントロ ールできるもの、できないものという考え方は、わたしたちの日常に広く用いることができるはずです。

 

たとえば受験生。試験に受かるかどうかはいろいろな要因に影響されます。

 

自分の苦手なところが出題されたら、急病になったら、寝坊をしたら、電車が止まったら……と不安な気持ちに襲われることもあるかもしれません。

 

でも、これらはコントロールできないことです。

 

コントロールできるのは苦手を克服する、試験日が近づいたら体調を整える、前日は早く寝る、電車が止まった場合の代替手段を考えておくなどです。

 

それらに注力するしかありません。

 

営業で、明日、客先に売り込みに行く会社員は、買ってもらえなかったらどうしよう、と不安になるかもしれません。けれど、それはコントロールできないことです。

 

コントロールできるのは、プレゼンの資料を準備し、客からの質問を予想して答えを考えておき、約束の時間に遅れないことです。

 

それ以外のことは悩んでもしかたありません。

 

イチローも語った、「コントロールできない」物事に悩む無意味さ 『迷いを断つためのストア哲学』訳者あとがき|Hayakawa Books & Magazines(β)

 

太字は僕がやったのだが、ここをよく読み込むと、これはつまり「コントロールできることだけ考えろ」という教えなのではないかと、そう思うに至っている

 

コントロールできる部分とは、つまり人事だ。コントロール不可能な部分ばかり考えていたずらに時間を費やすのではなく、人事に当たる努力を尽くせ、と。

 

例えばさっきあった話だが、講師との相性が合わず、変更希望が出た。ただこればかりはぶっちゃけ人事ではない相性が悪い者同士をくっつけることは、不可能なのだ。

 

その場は取り繕えても、段々とメッキが剥がれるように、不協和音は絶対に大きくなる。そのコストの大きさと不毛さを考えても、さっさと別人の交代が正解だ。

 

しかし、感情が無駄に乗っかると、天命の次元の話に意識を食われ、クヨクヨ、クヨクヨと、思考が全然先に進まない。僕が嵌っていた罠は、まさにこれだ。

 

過去と他者は変えられない。それは僕の課題ではない。しかし、自分事や未来の選択肢については、まさに自分事の課題、つまり人事である。尽くさねば、語る資格はない。

 

点数を取ってくるのは生徒だ。だからそこは天命だ。だが、少しでもいい点を取る確率を上げるため、こちらがする努力は人事だ。尽くさなければならない。

 

入塾があるかどうかは他者の課題だ。よってこれも天命だ。しかし、少しでもその問い合わせを頂く確率を高める努力は、人事となる。考えるべきはこちらなのだ。

 

本当に霧が晴れてきた。僕自身の勘違いが、一気に氷解した瞬間だ。ということで興奮が冷める前に、僕の思い違いと、それを更新した考え方をまとめておく。

 

「コントロールできないことは考えない」とは、そう自問することで、心をニュートラルな状態に保つべしという、一種の瞑想のような思考を意味”しない”。

 

そうではなく、「まだ尽くせる人事はなにか」をしっかりと捉え、それを全力で片づけることに集中すべしという、実践的で、どこかアグレッシブな言葉だったようだ。

 

他人が望むような行動を取らなかったことを悩むなんてのは、今日の天気が雨になったのを思い悩むようなものなのだ。

 

僕らにできることは、それこそ傘を用意する、雨合羽を用意する、室内でのイベントを用意しておく、別の候補日を立てる、テルテル坊主を作る等、山ほどある。

 

悩んでいる暇があったら行動しろ。その言葉の意味も、更新された状態で自分にインストールされたようだ。

 

学びというのは、本当に突如として深まる。だからこそ面白い。つくづく、そう思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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