僕は誰がどうみても内向型人間だ。しかし、自分が通ってきた道を振り返ると、そこにはなぜかいつも、【冒険】があるような気がする。
初めて秘密基地を作った日。南の離島で合宿した夏。友達とナビも無く当て推量で海水浴場を目指した高校の頃。全てが時系列ごちゃごちゃで、胸に去来する。
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内側の世界に閉じこもりがちである僕らは、その中で自分の世界を醸成する。それを社会と繋げる際に、一体何が鍵となるのか。
それは好奇心なのではないか。僕は今、そう考えている。その仮説を確かめるべく、今週もゴリゴリと、読んでいくことにいたしましょう。
- 7月3日(月) 内向性と冒険
- 7月4日(火) ストレッチバンドモデル
- 7月5日(水) 義務感×好奇心=覚醒?
- 7月6日(木) 優しく世界を揺さぶろう。
- 7月7日(金) 内向性VS挑戦。
- 7月8日(土) 好きのおすそ分け。
- 7月9日(日) 創造性と内向性と演劇。
7月3日(月) 内向性と冒険
強い好奇心は、引っ込み思案という本能に勝る。偉大な旅や挑戦を成し遂げたシャイの同志たちのエピソードを聞いていると、それはその通りだなと強く思わされる。
何かを知りたい、見たい、挑戦したいのであれば、その声に従って臆せず挑むべきだ。たとえ内向的であろうとも。という章であった。激しく同意する。
僕だって、基本的に引きこもるのが大好きなインドア野郎だが、過去一度だけ、海外でわざと一人ぼっちになってみたことがある。
すし詰め状態のシンガポールのデパート。周りから日本語が聞こえない状況。そこで僕は家族連れに混ざって、異国語で上演されるミュータントタートルズを鑑賞した。
その時の興奮というより、周りから人の声は聞こえるのにそれが全て理解できないという不思議な感覚を今でもすごく覚えている。そしてそれは、すごく心地良かった。
「書を捨てよ、旅に出よう。」・・寺山修司の本を、不思議と読みたくなってきた。
7月4日(火) ストレッチバンドモデル
”ある程度まで”なら、シャイだろうが朗らかな人を演じられる。逆もまた然り。そういう考え方を、筆者は「ストレッチバンドモデル」か何かと呼んでいた。
例えば手前味噌ながら、僕は時折、人見知りだというと「うそつけ」と生徒から言われる。仕事で使っている分人は、もしかしたら朗らかなのかもしれない。
しかしそれを日常生活で常時発動というところまで引っ張ると、多分バンドは切れてしまい、猛烈な精神疲労と自己嫌悪が待っていることは、想像に難くない。
そういうのもあってか、僕は仕事が終わると、かなり露骨にスイッチを切る。声のテンションも変える。言葉数も、ものすごく減らす。
とはいえ、ある程度までなら性格さえイジれるというのは、実は当然とも思えるし、夢のある話だなとも思える。
必要に応じて、個性さえ押し引き出来る人間でありたい。そんなことを改めて思った。
7月5日(水) 義務感×好奇心=覚醒?
内向性強めの人が、自分の世界をさながらビッグバンの如く拡大する方法は何か。色々調べたり読んだりしたが、結局は荒療治のような刺激が必須のようである。
全校生徒の前でスピーチをするとか、イベントをするとか、そういうのは目的ではなく手段。そう思えるような、正しい目的を設定すること。あるいは、発見すること。
それに成功したシャイな人たちは得てして、自分たちが叶えたい目的(例えば発展途上国の子供たちに本を贈る等)の”ため”に、内向的な殻を破って活動に乗り出している。
行動・仮説・検証・観察が目まぐるしい勢いで回るサイクルに、自ら飛び込むようなものだ。こうなると、いちいち他者のネガティブを妄想している暇はないわけで。
そういえば僕は最近、何かに打ち込んで、くだらない妄想を締め出すくらい、何かに打ち込めているだろうか。そう思うと、そうじゃないことに気が付いた。
仕事に全力になるとはどういうことか。今まで考えていたようで、そうしてこなかったテーマに、改めて向き合うべきときが来たかと、不思議と今実感している。
7月6日(木) 優しく世界を揺さぶろう。
シャイだろうが、世界を揺さぶることはできる。なかなかに誇大妄想な響きがあるが、例えばビル・ゲイツの例を出すと、どうだろうか。
しかしながら、シャイであろうと、行動を起こさねば、あるいは人を動機づけしなければ、世界を動かすのはどだい無理だ。その手段が、外向的な人と違うだけである。
ある人は、外向的な人と組んだ。ある人は、大きな目的を立てて、それを達成するには自分が表に立つしかないと、論理的に結論を出した。
さてあなたは?そして僕は?・・・というのが、本来きちんと考えるべき部分なのだと思う。
シャイなだけでは、救われないのだ。
7月7日(金) 内向性VS挑戦。
なんでもかんでも皆を巻き込んでなんかをするのが好きな人がいる。それはそれで個性だし、趣味だし、元来の性格に過ぎないので、気にする必要はないと思う。
しかしながら、完全に自分一人で閉じこもっている状態で、何か大きなことを成し遂げるのは、不可能という当たり前のことは悟っておいた方が良い。
今でこそ直接会わずとも力を借りられるサービス、例えばChatGPTの台頭などで、別に対人間を必須としない働き方も可能となったが、まだそれには限界がある。
いざという時にはシャイという殻を破って人前に立てるかどうか。そのためとして、その動機たる強い夢や目標を持てているか。
いざという時は正面突破が一番だ。根性論に聞こえるかもしれないが、これが要するに真理なのかもしれない。
7月8日(土) 好きのおすそ分け。
最近でこそ明確に引退を決めて、そのステップを着実に歩もうとしている僕だが、元々は人見知りという性格故、講師なんて生き方は1㎜も想像していなかった。
未だに古い友人達からは、生徒に対し嬉々として知識を語る僕の姿を想像できないと言われる。一体何が理由で、僕の内向性の例外となっているのか。
今日の章を読んで腑に落ちたが、それは「好きなことを伝える」という純粋な思いなのかもしれない。この部分はこう解釈したら面白い、こう考えたら解ける。
そういう発見を伝えることが好き。好きは気質に勝る。そんなものなのかもしれない。そして僕はそれを「対生徒」から「対講師」に変える段階にある。
佐渡島庸平氏の「好きのおすそ分け」という言葉が思い出されて、同時にすごく好きな言葉になった。僕はもっと、色んな人におすそ分けがしたい。そう思った。
7月9日(日) 創造性と内向性と演劇。
思考の材料を与えれば、シャイは化ける。その好例を今日も1つ読んだ。それはシャイだけど演劇に興味を持った、不思議な男の子の話である。
彼はスポットライトを浴びることについて「intimidated(脅されている)」と感じるほどの内向的な子であり、演技よりも観衆の目が気になるタイプだ。
そんな彼がある日、「強制収容所で日々を過ごす青年」という難しい役を与えられたという。胸の内などをイメージしきれず、リハーサルの時点で奮わなかったようだ。
しかし、実際のその収容所を、演技の勉強という名目で訪れたとき、彼の中で何かが変わった。
その当時、この場で過ごした人の心中について、観察のサイクルが爆速で回り始めたのだ。汲み取って、咀嚼して、自分の中に取り込む。
そして本番。彼は、台本のセリフを時に意図的に外しながら、演じ抜くことに成功するのであった。
ステージに立っているのは彼であって、彼でない。演じられたキャラクターが憑依した彼なのだ。
ある種ペルソナの極致。そこに至る道がまた一つ見えたように思えて、少し嬉しく思えた。
―ということで今日はこの辺で。