内向的な人は内向的ゆえ、自分なりの解決策を我流で作り上げて、そしてそれをシェアしない。だから孤独を感じるんだと思う面もある。
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同類の思考、同類の対処法。それを一つ学ぶ度に、僕は孤独ではないんだなと、大げさだが何かが解けていく感覚がある。
隠されてきた声をまた読める。えらい詩的だが、つまり今週も楽しみに読んでいこうという話なので、よろしくです。
- 6月5日(月) 蝶のように
- 6月6日(火) 慣れて創るという考え方。
- 6月7日(水) SNSという編集された煌びやかな世界
- 6月8日(木) ”さらけだす”
- 6月9日(金) 友情とは
- 6月10日(土) イイネ!を求めても内向的な人は幸せにはなれない
- 6月11日(日) どの自分を生きるか?
6月5日(月) 蝶のように
パーティーという項だったので誤解していたのだが、どうやらこれは、「複数人で場を共にする」という結構広義の話だったようだ。
いわば、自分にとって最も心地よいコミュニティをどう探すか、どう創るか、どう属すか。そういう話のようである。
ある人にとってはそれは夜のクラブであり、部活であり、2ちゃんねるである。そういう類の話なのかもしれない。そしてそれは、精神の発達とともに変化する。
別に隠すことでもないので書いちゃうと、僕は大学2年くらいまで、2ちゃんのまとめサイトが大好きだった。哲学ニュースとか、痛いニュース速報とかハム速とか。
そこに入り浸って、掃き溜めから世の中を見てケラケラする。今思えばそういう感じだったが、当時は心地よかった。
だが今はダメだ。なんというか、不快な気持ちが勝ってしまうからだ。何に属するか、何を楽しむか、それは場合に応じて変わる。
抜けたり属したりするコミュニティ論。これはこれで面白いなと思わされる。
6月6日(火) 慣れて創るという考え方。
日本だと馴染みが無いテーマ、パーティー。そう思っていたが、近いところは結構多い。例えば文化祭の打ち上げ、飲み会、コンパ、etc。
そういう場に行くと、すごく同意するのだが、猛烈に疲れる。多すぎる刺激にうんざりし、できるだけ早くエスケープしたくて仕方なくなる。
その際のコツは、とっとと既知の人に話しかけて、まずは安全地帯を作ることである。そして適当な言い訳でもこさえて、途中で帰る体制を整えておく、と。
その上でその次の集まりでは、前のときより少しでも長く残ることを意識して、ちょっとずつ閾値を高めていく。まぁ、慣れていくのだ。
最終的には、自分にとって居心地がよく、かつ他人にとってもそうだと思える会を自らクリエイトする側に回るのがいい、とあった。
気の合う仲間を集めてマリオカートをするようなものだろうか。そう思うと確かに、それならできそうだと、安心する気持ちがある。
6月7日(水) SNSという編集された煌びやかな世界
大学生の頃はmixiを使っていた。今はほぼ仕事用のFacebookとInstagram、あと含めていいならLINEを回す程度。僕のSNS利用状況はそんなものだ。
ただ、今思えば、その使い方についてはきちんと勉強しておくべきだったなと思う。もっと言えば、投稿される光景は全て、編集が入っていることを認識すべきだった。
デートの様子。大勢で集まって酒盛りをする様子。それらがフィードで流れてくるたび、家で漫画を読んでいるだけの自分が間違っているかのような気持ちになる。
だから何度かそっち側の世界に飛び込んでみたが、結局分かったことは、僕はそっち側の世界を楽しむことができない人間である、ということであった。
今も時折僕のSNSのフィードには、友人の子供の成長記録や、デートの様子、引っ越しといった人生のイベントが流れてくる。だが正直、何の感想も持たなくなっている。
「世界では今、こんなことが起きてるんだ、ふーん」という具合だ。それくらいが実は、内向的な人の世界の見方として、ちょうどいいのかもしれない。
6月8日(木) ”さらけだす”
ヘンな話だが、現実世界で引きこもりとか根暗と評される人が大きめの事件を起こすと、必ずと言っていい程その人が残したインターネットの書き込みが晒される。
紹介こそしないが、それらを読むと、痛烈で、胸に迫る、強い怨嗟のようなものを感じてしまう。だからメディアではこう喧伝される。
「大人しい人も、”本当は”こうなのだ!」という風に。まるで、ネット上の人格は悪なのだ、と言わんばかりだ。
ぶっちゃけ、ただの風評被害だと思う。教室とかで自分が好きなことや価値観を話すと、バラエティのイジリが正解と考えるバカに、面倒な返しをされることがある。
さらけだす場は、どこでもいいのだ。クラスメイトに面と向かって話す必要性は、どこにもないではないか。その人に話したいのではなく、そのことを話したいのだから。
内向的な人にとって、SNSはある意味、さらけだすための練習の場だと僕は考えている。ゆえに無理して煌びやかである必要など、全く無いのだ。
6月9日(金) 友情とは
オンラインでの繋がりは、真の友情か、否か。僕はこれについて、人によると思っている。まぁ、身も蓋も無いのだが。
昔の言い方になるが、ROM専は果たしてファンなのか、という問いにも通じる気がする。そう思うと、僕はリアルライフでの接触の有無で、明確な線引きがあると思う。
しかしながら、顔を合わせることが友情に必要なら、それはアバターなり、VRの空間なりで、容易に補完が可能になりつつある。
これまた流行りの言い方だが、対面という言葉の意味合いも最近は大きく変化しており、いわば「対面2.0」みたいな状態になっていると思う。
ネット上で空間を共有し、アバターで本音を語り合う。これは友情か、否か。内向的云々というより哲学に近付いてきたが、面白い問いだなと思わされる。
6月10日(土) イイネ!を求めても内向的な人は幸せにはなれない
TwitterやInstaのフォロワー、投稿1つのイイネ!の数。これらは確かに、認知の指標にはなるし、一定数以上の人気の担保にもなっていると思う。
しかしながら、そこでの投稿は、時間差のある、編集されたそれだ。ウィットに富んだ冗談がアップされたとして、工夫した時間が水面下にはあるかもしれない。
本書によると、本音ではそういう冗談をリアルライフで、瞬発的に、都度、面と向かって言いたいという人もいるという。
一方、SNS上だろうとウケているんだからいいんじゃないか、というクラスタもいる。大抵こちらは、リアルライフでも人気の人たちによる意見なんだけど。
デジタルデータに過ぎない承認をたくさん求めても、得られても、僕らは多分幸せにはなれない。
通念上の幸福なんてまぁアテにならんもんだと、30年生きてきて心の底から感じている。
6月11日(日) どの自分を生きるか?
本章の結びは、オフラインの自分も、リアルライフの友人も、オンラインのそれと同等か、それ以上に大事だよ、という提案だった。(後はデジタルデトックスも少々)
これについて、僕自身は「そうだよね」という感じなのだが、中にはもっと痛烈な事情があって、オフラインの自分を肯定できない人たちが居るのも存じ上げている。
インターネットが登場し、進化し、成熟するまでは、例えば小説を書くとか映像作品を作るといった風にするしか、別の自分を生きることは不可能だったと思う。
しかし今や、ビットコイン、メタバースといった技術の登場により、数学で言うような虚数みたいな世界に、”生きる”さえ可能だと言える。
クレヨンしんちゃん「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」という大好きな映画がある。黒幕の計画は現実世界で行われていたが、あれはそろそろ、VRで可能になると思っている。
つくづくインターネットによって”分断”が進むと感じていたが、遂に住む世界までそれが始まったのかと、SFチックな現実に、正直心が躍っている。
―ということで今日はこの辺で。