「そんな守りに入った姿勢ではダメだ、もっと表舞台にバカになって出ていかないと・・」と言われるたびに、自分のことが嫌いになっていくのを感じ続けていた。
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生まれ持ったものを慈しむとか活かすといった発想は1㎜もなくて、どうやってそれをぶっ壊して、ゼロにして、新しい自分を構築するか、ずっと考えた記憶がある。
そのイメージに近い漫画のコマを思い出した。遊戯王という漫画のとあるシーンで、登場人物の海馬瀬人の心がパズルのピースの様に壊される、というものがある。
その後、幼い彼がそのパーツを拾い、イチから作っていくという光景が挟まれるのだが、あんなイメージで、僕は僕を肯定しようとした。
だが、自分の体験・価値観・経験値・遺伝的要因は決して消えない。バラバラにしても、最後にできるのは、結局同じものなのだ。
変えられるのは認識や解釈のみ。そう悟ったのは、割と最近の話。もしそうやってもがき苦しんでいた頃に、この話をスッと飲み込めていたら・・。
そう惜しむ気持ちさえ湧いてくる。そんなお話、今週も読んでいこう。
- 5月29日(月) 外向的なフリをした末路。
- 5月30日(火) フレネミー
- 5月31日(水) 友人を作るハードルを上げ過ぎないということ
- 6月1日(火) 天性の聞き役
- 6月2日(水) 内向性と友人
- 6月3日(木) 全員が楽しいパーティーなんて不可能!
- 6月4日(日) 積極的コンフォートゾーン
5月29日(月) 外向的なフリをした末路。
「内向性と友情」という章に入った。ここで僕に強く刺さったのが、外向的なフリをした内向的な少女を襲った事件だ。
積極的にグループで行動し、さしていきたくもない活動に興じ、それでも社会への参加資格を得るにはそれしかないと頑張った彼女は、遂に疲れたようだ。
昼食時だけはゆっくりしたい・・。そう思って一人でカフェテリアに行くようにして数日、仲良くしていたグループから呼び出され、囲まれたという。
いわく、「昼ご飯を一人で食べるとか、私たちを何で避けるのよ!?」という怒りだったそうだ。
外向的な価値観からすれば、孤独とは無視で、自分の時間はみんなの時間なのだ。唖然としながらも、その少女は自分の考えを説明したらしい。
すると、それを理解できなかった一部の者とは疎遠になったようだが、理解してくれた一部の人とは、その後も交友を継続できたのだという。
この話を聞いて、僕はぞっとした。無理に外向的な生活をしようもんなら、自分の時間が消えてしまうのか!!!!!
だから今後も、僕は内向的全振りで、疲れているときは人との交流を遠慮しながら、自分にとって居心地の良い環境で静かに暮らしていこうと改めて誓った。
5月30日(火) フレネミー
フレネミーという言葉が紹介されていた。ちなみに英語で書くと「Frienemy」であり、「Friend」と「Enemy」を混ぜた単語である。
日本語だと上手い直訳が出てこないが、「友人のフリをした敵」みたいな感じだと思う。そして内向的な人たちは、その気質故、こういう人たちに絡まれやすい。
私たちと友達でいたいなら同じ行動をしろと詰め寄ったり、飛び級したら友達を止めると脅したり。今なら笑止千万だが、面と向かって子供の頃に言われたら、どうか。
正直その時点で相手は友人と思っていないのは明白であるのだが、孤独になるリスクや、新しい友人を探す労力を考えたりすると・・・。
そんなクソとであっても、繋がりを維持したいという気持ちは、想像できなくもない。だがどこまでいってもそいつらはエネミーなのだ。
僕は友達が少ない。これは寂しいことではなくて、関係を維持するに値しない人が勝手に消えていった結果だと考えていて、別に悪いことではないと捉えている。
現に今、僕が感じているのは寂しさではなく、穏やかさだ。この感覚も悪くないよということを、イヤイヤ集団に属している子達に伝えたいと思う。
5月31日(水) 友人を作るハードルを上げ過ぎないということ
友達は多ければ多いほどいい。―たとえそれが表面上の付き合いでも?
という風に、こと友情に関しては、謎の文化・価値観・理想が共同幻想としてシェアされており、非常にめんどくさいと思う。
多いけど浅い。少ないけど深い。立体の体積を考えるようにイメージしてみれば、どちらも同じ「量」だと思うのだが、それを伝えるのはなかなかに難しい。
しかし何より、友人という存在のハードルを上げ過ぎないこと。これは結構大事だ。まずは「おはよ」という挨拶から始めればいい。筆者もそう紹介していた。
案外始まりはそれくらいあっさりしている方が楽だ。そこから深まる関係性だって、間違いなくあるわけで。
僕は今31歳だが、無理して交友を今以上に広げようという気はさらさらない。自然消滅した関係を掘り返そうという気も、正直無い。
待っている先が孤独なら、ペットでも飼えばいいと思っている。価値観なんて人それぞれなんだから、自分が正解だと思えば、それでいいのだと納得する。
6月1日(火) 天性の聞き役
いわゆるモテる異性の特徴でもある「話し上手」の正体をご存じだろうか。実はこれ、すべらない話のようなエピソードトークのスキル”ではない”のだ。
どちらかと言えばひな壇の芸人と司会の間柄に似ている。話を振り、落とし、拾い、そして笑いに持っていくあの感じ。
「場の楽しさ」を決めるのは感情だ。そしてここで言う感情とは、要は「楽しく話せた」というそれこそが全てである。
内向的な性格の人は、エピソードトークの腕を磨いている場合じゃない。話の振り方、質問の仕方、リアクション、その辺を意識して観察し学んだ方がイイ。
僕らは天性の聞き役なのだ。そちらのポジションをぜひ、取りに行こう。
6月2日(水) 内向性と友人
内向的な人は社交的な人と異なり、友人は少なくていい。その代わり、深さと親密さが抜きんでるのが特徴である、と。それは結構同意する。
お互いがペルソナ(通念上求められる性格や理想像)で向き合いながら、大量の関係を構築するってのが幸せな人もいる。それは別に否定しない。
しかしながら、僕らが本当に繋がりを獲得するためには、有毒なコミュニティからはとっとと抜け出て、一人になるのを恐れない、そんな勇気を出すことが鍵なのだ、と。
正直友人がいなくても別に死にはしない。寂しさとかそういうのはあるだろうけど、友人がいるのに孤独を感じる人だってごまんといるわけで。
天性の聞き役という才能を生かしつつ、時には、たまに、自分の想いを言葉にして伝える。それくらいが一番いい、接し方なのだと説かれている。
6月3日(木) 全員が楽しいパーティーなんて不可能!
僕は結婚式は嫌いじゃない。でもパーティーは嫌いだ。花火大会も嫌いだ。合コンは金ドブだと思っている。忘年会も、大好きって程ではない。
でも少人数の集まりは好きだ。飲むなら2~3人がちょうどいい。ただ同窓会も、一回行ったら2年くらいもうええかなと、そんなことを思った。
何が言いたいのか。この価値観と真反対の人もいることなど重々承知しているゆえ、万人が楽しいパーティーって不可能だよねという当たり前のことである。
実際、HSPな人が楽しめる規模のパーティーは、そうじゃない人にとっては欠伸が出るほど退屈なチマチマした集まりと思われるだろう。
一方、社交的な人たちがウェーイってできる場は、猛烈にしんどいので、僕は絶対に近付かない。クラブとか論外だ。
こういう七面倒なパーティーというヤツをどう御すか。それがこっからのテーマらしい。実に楽しみである。
6月4日(日) 積極的コンフォートゾーン
コンフォートゾーンという言葉がある。元々は何の用語か知らないが、ビジネス的な文脈だと、成長があり得ないぬるいエリアみたいな意味合いがある。
自分にとって居心地がいいところに成長の種があるわけねぇだろ、ということなのだろうか。まぁ、それについては荒っぽいが、賛成する面もある。
だが、コンフォートゾーンを飛び出した結果、生理的に嫌いな世界を発見したらどうするか。意外とここは、頑張る一択なのが口惜しい。
嫌いだとわかったのなら、また引っ込めばいい。それだけだと思う。例えば僕は一度パチンコ店に入ったことがあるが、騒音と点灯が凄まじく、一瞬で吐き気を覚えた。
そうだとわかったなら、類似の世界にリトライするのではなく、徹底して避けるのが正解だ。嫌なんだとわかったら、しない。それでいいと思う。それもまた、成長だし。
―ということで今日はこの辺で。