過去何回か仄めかした話だが、僕は結構ガッツリ心を病んだ時期がある。(それもあって、24歳の頃の記憶が人生から完全に抜け落ちている)
当時の病院の先生は気を遣って、うつ病ではなく適応障害という病名を診断してくれた。あの頃のような激しい憂鬱を覚えることは、幸福なことに、それ以降一度もない。
あれから7年以上が過ぎた今、今度は逆に、「うちの子がそうなっている」という疲れ果てた親御さんからの悩みを聞く機会が、ここ最近連続している。
その都度、何も言えない自分の無力さを呪いたくなる気持ちと、何か一つでも聞き出して楽にしてあげようという気持ちが自分の中でせめぎ合い、僕の心に穴を開ける。
こういう話を聞くたびに僕が心の底で思うことは、実はただ一つだ。ただ一つなのだが、それは究極的なことゆえに、僕を完全に支配し得るものとなる。
「頼むから死んだりしないよな?」
今日はその動揺を鎮めるため、ひたすら何かが尽きるまで、言葉を書き並べたいと思う。
全てがそれに向けた歩みに見えるから。
少し自分の過去のことを書く。僕が心を折ってからしばらくは、友人からも家族からも腫物の如く扱われるわけだが、僕はそれはそれで感謝していた気がする。
身体を起こすこともできず、食事も摂れず、2日に1食という暮らしになることもしばしばであった。そんな期間が、1~2ヶ月は平気で続いた。
生物としての反応すらできない。それについて自責することもできない。だから人から完全に触れられないという時間は、今思えばすごく良かったのではないかと感じる。
もちろん夜は眠れない。真っ暗な部屋で天井を眺めながら、起きたらいっそ天国に行っていないかなと思ったことは、何度もある。
―そんな日々をしばらく送ると、少しずつ動けるようになっていった。完全な無から、少しは建設的な思考が湧くようにもなった。
そんな風に、僕が身体を起こせるようになったきっかけは、本当になんだったのか分からない。
何かしらの励みになることがあったのか、それとも飲んでいた薬が効いたのか。今となっては、どうでもいい。
そして家の周りを歩くことから活動を再開し、段々と周りの人と接する機会を増やすようにして、そして復職も視野に入れて、と。そういう風に段階を踏んでいった。
・・・元気になった今だからこそ、過去のことをややポップに振り返れるわけだが、そんな僕が友人から一番される質問はこんなのだ。
「命を断とうと思ったことは無いのか?お前がそうしなくて本当によかったけどさ」
正直に言うと、本気で気分が沈んでいるときは、生きるとか死ぬといった意志を抱く元気さえない。
この道の先には生がある。この道の先には死がある。そういう分岐点の入り口で仰向けに寝転び、苔むすまで停止している存在。当時の僕は、そんな感じである。
さて。最近のインフルエンサーの自死の例を聞いても「そうだな」と思うのだが、実は一番そういうことに踏み切ってしまうのは、身体が動くようになってからなのだ。
自死は衝動的なもの。それを防ぐには、誰かが一緒にいる環境、悩みを聞く状況を作り続けるしかない。そう指南するガイドブックも多い。
かくいう僕も一度、結果として未遂になった行為がある。睡眠薬を酒で飲んだのだ。その後気晴らしにゲームをしていたのだが、気付けば胡坐をかいたまま寝落ちしていた。
実際、睡眠薬と酒の同時摂取は禁忌である。記憶障害や呼吸抑制を引き起こす可能性も示唆されており、それはつまり、無意識下で窒息死する未来もあり得る。
目覚めたとき、僕が真っ先に思った、ゾッとすること。それは未だに、恐怖感をもって覚えている。
「死ぬこともありえたのか。でも、生きてんじゃん」
どちらかと言えば、死の方が望ましかったのではないか。回復期にあったはずなのに、矛盾するようなことを覚えたあの日のことを、強く覚えている。
・・・そういう過去があるから、というのもあるが、僕は鬱になった人の話を聞くと、真っ先に最悪のケースを想像してしまう。(皆そうだろうが)
それが身近な人、さらに言えば生徒となると、僕の悲観はどんどんと膨らむ。あまりにも悲劇的な自問自答にも、時折至る。
「その子の通夜にどんな顔で行けばいい?」「棺桶の中のその子を俺は見れるのか?」「俺の力で救えた命ではないのか?」という風に。
つまり全ては妄想なのだが、過去僕が経験した通夜や葬式の記憶とリンクし、あたかもパラレルワールドの自分が実際に体験したかのような濃さと痛みをどうしても覚える。
もちろん、鬱状態になったらそれがそのまま自死を意味するという話ではないことなど、膨大な体験談・経験談を読んでもわかることだ。
しかし、鬱状態になったことが直接的な原因となり、哀しい決断に自分を走らせた話も、たくさん出てきてしまう。どちらにもあり得る未来。だからこそ揺れる。
ブレにブレてブレまくり、視界がぐるぐるになり、思考が崩壊して、今自分が何にどう悩んでいるのか、これは現実なのか妄想なのか完全に混ざり切った後・・・・
いつも必ず、同じセリフが、頭の中に残る。
「頼むから死んだりしないよな?」
つまり、僕の願いはこれだけなのだ。大丈夫だという楽観も、危ないかもという悲観もしない。いつでも助けられる状態にして、差し伸べられた手は絶対に払わない。
そうあるためには、僕は元気であった方が良い。こうしている間にも世界では、誰かが鬱になり、誰かが寛解し、誰かが自ら死に、一方で誰かが救われ、誰かが殺される。
その全てに反応はできない。そして、したところで、誰も救われない。その誰も、には、僕自身も含む。
長い人生、一度や二度くらい充電期間が必要だろう。たまたまその子は、今がその期間だっただけなのだろう。そう思うことにする。
これは無責任なのだろうか。いいや、違う。引きずられてこちらも鬱になる方が無責任だ。自分を壊して、誰も救わず、世界の不幸な人間の母数だけ、イタズラに増やす。
頭で割り切るのは不可能に近いが、それでも僕は笑っていたい。微笑んでいたい。いつも通り、過ごしていたい。でなければ結局、誰も救うことなんてできないんだから。
でもやっぱり、こう思わずにはいられない。
「頼むから死んだりしないよな?」
―いつまでも、気が済むまで、休んだっていい。でも必ず、帰ってこいよ。急がなくていいからさ。
・・・この声を届けるチャンスは今のところ無いが、願わくばこのことを直接伝えたいと思っている。
今はもう、それだけだ。
ということで、今日はこの辺で。