「引退」や「継承」を前提として、いわば僕はいつか必ず居なくなることを念頭において、仕事に当たること。これが現時点の僕のテーマになっている。
自然と意識が向く話題も、例えば「死」や「諸行無常」といったものが増えてきて、32年の人生において一番、内省をじっくり深め続けている日々だと自負している。
そんな中、放送作家をきっぱり「辞める」と宣言した鈴木おさむ氏の著書を読んだ。職場に置いていたら誤解しかされないであろうタイトル、だからこそ気になったのだ。
辞めるまでの経緯、胸の内、実は考えてきたこと、その全てがこの本に集約され、未来に向けての整理整頓がここに完結されているという印象を持った。
前書きにも書いてあったが、確かに「仕事を辞めることに関する本は少ない」と僕も思う。だからこそ、ここに記された言葉の一つ一つを味わいながら、読んだつもりだ。
そして読み終えた今思うこととして、一つ自分の中で勘違いしていたことに気が付いた。それは、僕がいずれ身を退く際に考えるべきことの順序だ。
そもそも論、「引退」も「継承」も、あることを達成して始めて許される贅沢なのではないか?今はそう考えるようになっている。
今日は、未来の自分が読んで振り返っても意味があるような、そんな記事をしたためる所存である。
ゼロから立ち上げた組織を継承する、わけでは無い。
色々な人たちが、引退を間近に控えたり、大病を患ったりした際に残した言葉を読んできた。どれもこれも、深い覚悟がビシビシと刺さり、強い覚悟が伺える。
それ自体は極めて重要な学びになったと思うが、僕の置かれている状況は、それらとはだいぶズレていることに、今さらながら薄々気付きつつあるのが今だ。
というのも、僕は僕が1人で積み上げてきた実績や会社に区切りをつけるわけではなく、誰かから引き継いだ何かを、別の誰かに手渡す中継地点に過ぎないからだ。
自分が立ち上げてきたものと、あくまでも与えられたものは、まるで異なる。新築の家に住むのと、中古の家に住むくらい、細かいところではまるで違うはずだ。
その差を意識せず、ただ闇雲に引退や継承を考え続けてきたが、どうにも実感が伴わないとは思っていた。その理由が、今ようやく解った。そもそも前提が違うのだ。
渡されたものを、どこまでやり遂げれば、託せるのか。僕が考えるべき引退の区切りはここに隠れていると思える。掘り下げて考えて、走りながら直していく。
そのためには、僕が校舎長を引き継いだ人事上の理由からしっかりと思い出す必要があるだろう。まぁ、人不足が最たる理由で、深い意味など無いと悟っているのだが。
卑下でもなんでもなく客観的に、僕は僕の在り方を「中継ぎ」だと考えている。組織を大きくし、コミュニティを広げたところで、託す役割を背負っている、と。
それこそが喫緊の課題であり、率先垂範でもなんでもやりながら、泥臭くても、人数と数値を目標にして邁進しなければならないと、改めて思えてきた。
自分が率先して、成果を生むためにチームを動かす。会社の理念から外れず、むしろ体現しながら。この途上では、個など発揮するだけ邪魔になる。
今やらなければいけないことは、とにもかくにも、数値を追いかけること。組織が大きくなった、僕の手腕が活きたかどうかは、結局そこでしか測れない。
職場内の幸福を追求することも、スタッフの研修に骨を折ることも、全ては目標であり、最終的な目的はただ一つ、利益を出して存続することだろう。
生徒が減れば憂鬱になり、生徒が増えれば歓喜する。それくらい血の通った感情を今の校舎に抱けるか、どうか。それでいて、達成できたら素直に身を退けるか、どうか。
青い鳥ばかり見ていても現実は見えない。図らずも自分の甘さが実感できた今、反省はするが、無駄な自責は無しだ。
中継ぎなりの意地を見せられるよう、もうちょっと無茶しながら、やり切りたいと改めて誓い直す。
では今日はこの辺で。