精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

凄まじい結果を出す人たちの共通点に一個気が付いた。そしてそれは僕らにも移植可能だ。

成功はアート、失敗はサイエンス。「大きな嘘の木の下で」を読んでこの言葉を知って以来、僕は他人の成功体験を真似することをあまりしなくなった。

 

むしろ失敗した要因には不気味なほどの共通点があるからこそ、他者のそれから学ぶ方が再現性があると割り切るようにしている。それはここ数年の話だ。

 

しかしここ最近、ハマっていたゲームのストーリーに影響を受けたのもあるのだが、凄まじい結果を出す人たちの共通点に、ふと気が付いた

 

これは成功体験なのか、それすらも超越とした何かなのか、僕には解りかねる。だが、その共通点は、言葉の節々に何度も登場することから、とても大事なのだと思う。

 

今日はそんな、心が研ぎ澄まされていくような、そんな話を書いてみる。

 

 

”生き急ぐ”人たちの心に宿るもの。

その共通点とは、全員が「死」という終わりを意識しているというものだ。人生は有限であり、自分はいつか必ずこの地上から居なくなる。そのことを何度も自問している。

 

今を生きている人と言えば代名詞のように浮かぶ堀江貴文氏も、小学生の登下校時や獄中で死の恐怖に憑りつかれて苦しんだ時間があるのだという。

 

佐渡島庸平氏も、「自分の墓石にはなんと刻まれたいか」という自問自答を入れたり、自分の子供にも「僕らはいつか必ずいなくなる」と伝えたりしているそうだ。

 

僕らは、いつか、必ず死ぬ。これは生物である以上当たり前の事実なのだが、僕らはこのことを簡単に忘れて、永遠に生きられるかのように錯覚してしまう。

 

芸能人の死、近所の人の死、ペットの死、肉親の死。死別に何度も触れる内に、「いつか自分の順番が来る」ことを悟る。僕も、実は長生きしないだろうと納得はしている。

 

栄枯盛衰。諸行無常。これら全ては不変の真理である。今の世は、良くも悪くも他人の死に対するアクセスが非常に良くなった。僕らはそこかしこで、そのことを学べる。

 

もう削除されてしまったが、アントニオ猪木氏が逝去する直前と言っていい日に撮影された動画が、彼のチャンネルにアップされていたのを観た。僕は文字通り絶句した

 

強靭な体躯を誇り、スターとして活躍した、善悪を超越した”強さ”の象徴としての姿は完全に消えて、静かに死を待つ様子がそこに記録されていたからだ。

 

寝間着で隠れてはいたが、もうその身体には文字通り骨と皮しか残っていないことが見て取れた。それでも猪木氏は笑っていた。死を纏いながら、確かに、笑っていた。

 

と同時に思ったのが、僕にも当たり前のように「死」という終わりが備わっているということだ。そのとき、些末なことが脳内から消える感覚を味わったのを覚えている。

 

見城徹氏は、死という決まった未来から照射すれば、現在はそこから最も遠い場所にいると語る。全ては今何を成すかであり、過去や未来は介在しない、と。

 

人生は有限だ。そのことを誰よりもわかっているからこそ、あの人たちは無尽蔵なエネルギーと熱意、そして悲愴感を纏いながら、誰よりも走っているのかもしれない。

 

まさに、”生き急いでるかのように生きている”。アル中カラカラでおなじみのwawawa氏のタグに【人生RTA】という秀逸なものがあるが、まさにそれだと思う。

 

そう考えると、僕は生き急げているだろうか。死という未来をちゃんと意識できているだろうか。それに向けて、今をちゃんと見据えられているだろうか。

 

そう自問自答すればするほど、不思議と活力が漲ってくる。先延ばしにしていたことを、すぐにやりたくなる。大体のことが何とかなりそうになる。

 

このエネルギーの正体は、言語化可能なのかさえ不明だ。だが確かに、燃えている。命のバトンを受け取るなんて大仰な話ではないが、受け取ったという感覚は持つ。

 

人間である限り、いつか死ぬ。それは何なら今日かもしれないのだ。あるいはゆっくりとそれを受け入れる時間を渡されるかもしれない。神はその辺、気まぐれだ。

 

明日死ぬと思って生きながら、永遠に生きると思って学ぶ。それを胸に、僕もまた生き急ぐ一人として、人生RTAを駆けたいと、改めて思った。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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