精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

目先のごちゃついた問題は、できるだけ算数で考えるということ。

白状すると、現状校舎運営は順調とは言い難い。数値としてはボチボチなところが出ているのだが、その内訳というか、数字の裏に隠れた部分が不健全なのだ。

 

言うなれば、とある野球チームがあったとして、その戦績は悪くないが、それはチームではなく特定のバッターとピッチャーが活躍しているだけという状況に近い。

 

つまりそこが崩れれば脆く崩壊する、いわば自覚ある病巣を抱えた状態なのだ。ここはマジで僕の責任なので、早急な改善を求められている空気をずっと感じている。

 

とはいえ、一言で「経営状況をよくする」なんて呟いても、それはアバウト極まりない話ではないか。

 

問題として定義されていない以上、解くもクソもない。よく言われる「課題から目を背けるな」という助言は、つまり現状を問題という形に分析することではないか

 

そして複雑な状況を問題という形に落とし込んで、感情を排して解くというプロセスは、数学というより算数に似ていると、今は合点がいっている。

 

藁にも縋る・・というには大袈裟すぎるのだが、前半期を駆け抜けた今、僕の身の振り方を改めるタイミングには違いない。

 

だから今度は今までとアプローチを変えて、抽象的にではなく、どこまでも具体的に、今回は考え抜いてみることにする。

 

問題にさえ変えてしまえば、あとは解くだけだ。そこを目指して、頭を絞りたい。成人式の折、僕は「在り続けること」の責任を強く感じたはずだ。

 

それを果たすため、擦過傷まみれで毎日生きるくらいで丁度いい。能書きはこれくらいにして、早速以下、内省の記録をまとめておく。

 

 

算数で考える、現状の課題。

 

「経営状態が悪い」と一言で言っても、抽象度が高すぎる。正直、会社が潰れるとか、組織がヤバいという予感や感想を持つときというのは、以下のどれかだろう。

 

①組織内の雰囲気が悪い

②売り上げが出ていない

③その他外的要因による圧

 

―これを考えたとき、僕の組織で一番「ヤバいな」と思うのは、②だ。売り上げというわかり易い指標が、あまり奮っていない。だから不安になり、焦る。

 

更にここから分解すると、それはさっきよりスムーズだ。売り上げとは、「客単価×客数」である。(僕らは定期購読型のサービス業なので、リピート率は無視)

 

塾っぽく言うなら、「月謝×生徒数」という感じ。となれば、売り上げが低い場合というのは、月謝か生徒数が因数として小さいという、ただそれだけのことだといえる。

 

では、高めるとしたらどちらなのだろうか。これは無論、両方だと見て間違いないだろう。

 

とはいえ、間違いないのだが、これら2つの指標は、その性質が微妙に違うように僕は感じている

 

例えば月謝もとい客単価は、タイミングを逃してキャンペーンを打っても、ビクともしない。そのタイミングとは、受験勉強の始まりや、テストで爆死したときである。

 

「そろそろ科目を追加しませんか」「集団授業にコンバートしませんか」という風に、顧客の心が開くタイミングが、ある意味予測できるとも考えられる。

 

つまり、ピンポイントで押せば、まとまった数が上がる可能性があるのがここだ。逆に言えば、1年を通じてずるずるキャンペーンを打っても、そちらにはまず反応しない

 

しかしながら、生徒数は逆だ。今年意外な発見だと思ったのだが、季節講習をきっかけにお試し入塾をしてみようというご家庭は、”結構少ない”。

 

外生からの入塾は、現行の生徒数の50分の1くらいの比率である。見比べてみても、確かに少ない。

 

その代わり、「えっ、今?」というタイミングの問い合わせは、科目追加ではなく入塾希望であることが大半である。

 

だからこそ、いつでもウェルカムという姿勢を全力で維持しながら、ルーティンで導線を引き続けるのが大事ではないかなと考えている。

 

ふと思いついたときに、どの媒体からでも、最短ルートで問い合わせまで持っていけるか。そういうシステムになっているか。その目線で見ていくと、できることは多い。

 

他の塾がやっていて、ウチだけがやっていない広報手段があったら、それはマジで空間とヒトの浪費であり、落ち度であり、負の要因の差別化に繋がってしまう。

 

ここまで考えると、不思議と気持ちが上向いてきた。現状は別に変っていないのに、自分が漠然と抱いていた不安という霧が晴れてきたという、それだけで気は楽になった。

 

ところで最近、引用の引用で恐縮だが、不安という感情についてさらに納得感の強い定義を発見した。

 

一定の対象をもたずに恐れを感じている気分。自分を脅かす危険な対象が目前に存在していてこれにひるんでいる感情を恐怖と呼ぶのに対し、不安は自らに襲いかかるものを特定することができないまま自分の存在があやうくされていると感じる情動である。

 

お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―|大人の寺子屋コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

 

逆に言えば、対象が特定できればそれは不安ではなく恐怖ということになる。そして恐怖とは、その対象がはっきりしている手前、対策の仕方も体系的という感じがする。

 

算数はそのツールの一つではないか。ずっと嫌いだったけど、やっぱり思考法としては、僕にとっても相容れるところがあるように感じた。

 

じゃあもっと具体的に、生徒数を増やすために何ができるだろうか。そこは本を読んだりChatGPTに尋ねたり、自分の知識の埒外にアクセスしなければわからないだろう。

 

困難な状況下でも、冷静にジャッジする観点と、ユーモアのある解釈は本当に活きる。そのことが改めて分かったように感じる。

 

では今日はこの辺で。

 

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