精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記136】"Quiet"読書感想ブログⅪ ~俺たちのアジト~

疲れが溜まってくると、その原因はいわゆる肉体的疲労ではなく、メンタル的疲労であることをつくづく実感する。

 

強みであると同時に弱みであるとも自負しているのだが、僕は常時周りに対し、全力で観察力を発揮しているような意識の向け方をしている。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

 

徒歩移動の全てをダッシュや格闘技のステップで行うような、いわば無駄のない無駄な動きであり、もうちょっとくらい器用に行きたいと、ずっと考えてきた。

 

だがそれはもう、諦める。人より疲れるなら、人より上手にケアできるようになる。そう割り切ることに決めたから。

 

そんな今週の読書感想ブログ、ヘロヘロだけど、書いていこう。

 

 

7月17日(月) ひとりになりたい。

 

独りになることで神経を落ち着けて、自分の内なる声に耳を傾ける。この過ごし方は「嫌いではない」程度に僕は考えていたが、もっと逼迫した問題らしい。

 

誰とも繋がって”いない”時間は、僕ら内向的な人間には絶対必須の時間なのだ。実際、狭い部屋へさっき引きこもってみたが、なんと落ち着くことかと思った。

 

独りになったはずなのに疲れが取れてこないとき、それは独りの度合いが足りないことを指している。

 

もっと独りの時間の質を高めるにはどうすればいいか。先駆者の話を読むにつけ、自問し続けたいなと改めて思った。

 

7月18日(火) ひとりになるのは難しい?

 

「一人の時間って大事だよね」という話は、年齢が下がれば下がる程、「理解できん!」という印象を持つものらしい。

 

確かに、ドッジボールとかの輪に入らず、読書ばかりするやつを見ると、「つまらないやつだ」とか、「俺らのことが嫌いなのか」と思う気持ちも、理解できなくはない。

 

基本的に一人の時間が大事だと認識している子は、早熟だ。だから言っちゃ悪いが年相応の幼稚な子達とは、良くも悪くも話が合わない。だから疎外感を覚える。

 

現代社会では、多様な価値観があることを、結構早くに自覚・認識することができる。早熟するチャンスが、過去の時代より多いような印象を抱く。

 

だからこそ、不登校の増加などもそこにリンクしているんじゃないかと思っている。それは考えなのかもしれないが、そんなことまで、ちょっと考えた。

 

7月19日(水) 意地でも一人になる。


独りの空間が創れれば最高だ。だがそれが難しいときは、独りの世界を持つことが推奨されていた。こちらの方が難度が高そうだが・・。

 

例えば、仕事中にちょっと一息入れるときは、音楽を聴く時間を作るのもそう。或いは、本か何かを手に取り、それに意識を向けるのもまた、そうだ。

 

他者や周りの環境に、強制的に意識を向けられるという振り回され方をしない。主体的に、集中の対象を振り分ける。

 

それが広義の自分の世界というならば、それを持つことは決して不可能ではないように、僕は感じている。

 

7月20日(木) 自分の居場所たる隙間とは。

 

自分の気力と体力が回復していくアジト。それが既に設備として存在している環境ならめっけもんだが、それが別に無いのなら、創る必要がある。

 

今思えば、僕の弟も内向的なヤツであるが、僕以上に居場所探しが得意だと感じている。車の中に数十分くらい閉じこもり、出てこない光景を、まだ覚えている。

 

そのときは誰かと電話でもしてるのかと思ったが、あとあと聞いてみれば、「ただ落ち着く」というのがその理由であった。

 

これは一つのヒントのように思える。外界と完全に隔離された空間、時間。それこそが居場所たる隙間の要素であるなら、僕はそれを探す旅に出たいくらいである。

 

7月21日(金) 内向的だろうがストレスは時に爆発する。

 

外向性の人は、抑圧されるといずれ爆発し、過激な行動に出たり、アドレナリンによる勢いのまま朝まで遊んだり、そんなことをする印象がある。

 

これはつまりストレスによるものだが、内向的な人だって、ストレスが溜まれば爆発する。その直接的な原因は大体、独りになる時間が無い点にある。

 

僕らは誰かと遊びたくて爆発するのではなく、自分の時間を取れなさ過ぎて爆発するのだ。家にいるときに仕事の電話が掛かってくると、平素の10倍腹が立つのと同じだ。

 

独りという時空間の確保には、思った以上に意識を向けるべきだと、つくづく思わされる。

 

7月22日(土) 居場所はどうあるべき?


居場所。意味は解るが、言葉の解説が難しい。共有できることもあれば、共有できないこともある。

 

僕はトイレが居場所という人を可哀そうだと思う。だが、僕が休日に海辺で釣り糸を垂らすのが好きだというと、寂しいねと言われることがある。

 

両者とも、本意不本意は知らないが、そこが好きな場所なのに、だ。分かり合えるようで分かり合えない、居場所という何か。

 

だが、ヒントはある。例えば、喫煙所にいる人は、煙草を共通の言い訳として、そこに集う。別に会話は必須ではない。それでも何か、繋がりを覚えるあの感じ。

 

そう思えば、居場所とはつまり、自分が本当は居たくない場所から逃げてきた先にあるものなのかもしれない。

 

同じ苦手な物から逃げてきた仲間同士、ある場所を居場所として集まってくる人は、それを共通言語にしているのだろうか。そう思うと、急に親近感が湧いてくる。

 

7月23日(日) 大事なのは許容の心。

 

内向的な人間が持つ最たる弱点とは何か。僕自身強くそれを認識しており、折に触れて猛省するのだが、それは察することを期待してしまうというものだ。

 

発信下手な僕の胸の内を察して便宜を図ってほしいと、他者に対して期待をしてしまう。僕が大嫌いなはずの期待という感情が、場面によっては生きているのだ。

 

「俺は独りで居たいんだって」「電話とか掛けてほしくないんだって」「めちゃくそ忙しいんだって」というあれやこれやのメタ。

 

一度、その窮状を研修か何かで白状するという場面があった。その際、セミナー講師に言われたことが、すごく心に残っている。

 

「ではあなたは、そんなに苦しいということを発信しましたか?」

 

・・今なら冷静に、「きついならきついと発信しないと、あなたの胸の内は誰にも見えていないですよ」という助言だと、すごく腹落ちする。

 

でも当時は、「この後に及んで俺を責めるのかよ」と被害者妄想全開で受け止めてしまってごめんなさい。数年越しだけど、今反省します。

 

―ということで今日はこの辺で。

 

 

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