精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

生徒に重めの説教をしたので、その胸の内を書いてみる。

元気溌溂な生徒と言えば聞こえはいいが、TPOを読めなければ途端に鬱陶しいガキという評価に変わるのが、教育業の難しいところである。

 

校舎にちょこちょこそういう生徒がいることは何度も書いてきたが、遂に今日、「あーぁ、面倒だけど、説教せんといけんなあ」という場面があった。

 

これ以上放置すれば、塾としての醜聞に繋がるし、何よりその生徒が憎まれてしまう。僕がそういう嫌われ役を担わねば、これをする人は他にいない。

 

いわゆるファッションヤンキーとでも形容すべきヤンチャなヤツと、個室で相対する。思いを伝え、その子と話した。おちゃらけた雰囲気は皆無。威圧するつもりで話した。

 

・・・その後は、葬式中みたいな空気感で、無音のまま集団授業を頑張っていた。その姿に色々去来するものがあったが、敢えてそこから目を逸らし、授業に集中した。

 

そんなやり取りを終えた今、僕の心の中では、結構不思議なものが渦巻いている。これはこれで、貴重なメンタリティかもしれない。

 

ということで今日は、それをなるべく言葉にして残しておく次第である。

 

 

正直思ったこと。


説教はする側も辛いとか、痛いのは同じだとか、そういうフレーズをよく言われる。決してストレスの発散口ではなく、指導にはする側にも痛みが伴うのだ、と。

 

では、説教してみてどうだったか。僕に痛みはあったのか。はっきり言うが、僕の内に生じた感想の一番近いところは・・・・・・

 

めんどくささだ。言葉は選ばないといけんし、キレてもダメ、しかもそのテンションは一貫させたままその日を終わらせなければならない。

 

怒った後に一転して剽軽になってしまうと、僕の場合、貴重な威厳と呼べる何かが簡単に吹き飛んでしまう。演じるのもまた大変なのだ。

 

そういう事情が次から次へと湧いてきて、「面倒だな・・」という何とも言えない感情が込み上げてきたことは、嘘偽りないので書いておく。

 

―ただ、別の収穫はあった。それは、単に年を取ったからだろうが、ちゃんと響く説教ができるようになっていることを確認した、ということだ。

 

今までだったら、説教の場でもどこか生徒がへらへらしており、「お前のトークなんて聞き流すぜベイベ」というメタをそこから嫌でも感じていたものだ。

 

だが今回は、はっきりと「俺、ヤバいことした・・」という焦りが顔に貼り付いており、変な話だが僕に萎縮しきっていることがありありとそこから伝わってきた。

 

僕はカミナリを落とすタイプではない。カミナリは通用すればまだマシだが、通用しなかったとき、途端に切るカードを全て失うという致命的な弱点がある

 

僕はどちらかと言えば理詰め型だと感じている。静かに反論を潰す感じ。ちなみに怒り方については、個性に応じて大体3パターンくらい存在するという。

 

恥ずかしいので手の内は書かないが、そういう問答の経験値を積んでいくと、冷静に切るカードを認識しながら生徒と相対することができるようになるわけで。

 

後もう一つ気付いたのは、柄にもなく説教を食らわした後に胸の奥でわだかまりがちな「申し訳なさ」を、今回はつゆほども抱かなかったという点だ。

 

大学生の時分などは、単に自分が先に部に入っただけで先輩面して説教するのが、たまらなく違和感があった。だから終わった後に、僕のメタがうるさかった。

 

「お前が説教できる立場かよ?」「言葉はちゃんと選べたのかよ?」「見てみろよあの顔、落ち込んでるけどいいのかよ?」といった風に。

 

だが今回は、例えば「いや、これもあいつのためだからさ」という風に、自分で自分を慰めるような思考さえ要らなかった

 

ガチ凹みしていることなどガン無視して、いつも通り当てて、問題を解かせて、授業を運営し切ったのだ。お葬式みたいなあの空気さえ、何も心を揺らさない。

 

僕は成長したのだろうか。それとも単に、鈍くなったのだろうか。鈍くなることは、成長とはまた違うのだろうか。

 

色々と考えればまだまだ考えられることはあるけれど、正直説教した結果思ったことはこのくらいでござんす。じゃ、今日はこの辺で。

 

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