結局、モテるのはどんな人か。そんなことをふと考える。これは異性からの好意からという意味だけではなく、つまり人を惹きつける力のことを指す。
そしてその暫定解に、30歳を過ぎた今、薄々辿り着いている。それはすなわち、「べきだ」論を唱えない人たちではないかな、と。
思うに、正論や価値観を相手に押し付けるような物言いの人は、全くモテない。仮に周りに人がいても、その人間性で惹きつけているわけではないだろう。
例えば誰かと飲みに行くとして、説教やアドバイスが好きなタイプの人がいると事前にわかると、僕はなるべくその会合を回避する。それくらい、側にいるのは苦痛だ。
ではなぜそういう人たちは、自分の価値観こそが正しいとか、他者の考え方は間違っているとか、悩みを甘えを言い切ってしまうとかができるのだろうか。
もっと言えば、どうして「べきだ」論をああも無邪気に振りかざせるのだろうか。自分が正しい、その理由は自分が正しいからだという理屈。純粋に疑問に感じている。
それは逆のタイプに対しても同じだ。なぜ器が大きい人たちは、むしろ「べきだ」論を嘲笑さえでき、かつ異なる価値観に理解を示せるのだろうか。
自分の友達の例、先輩の例、そして器が大きいと思う方々の発言などを読み込みながら、その辺の問いを解こうと思い巡らしてきた。
その結果、ある意味身も蓋もない結論に辿り着いてしまった。それは、要するに勉強してる人って器が大きいよねという、そんな当たり前の話である。
今日はそれについて記事を書く。
自分というフィルターを通してでしか世界を観察できないという辛さ。
【サピエンス全史】を読んで以来特に、僕は「世の中に絶対的な正解って無いよね」という思いを強くしている。
例えば、今はSNSで為政者への不満をぶちまけても、殺害予告等のレベルで無ければ、特にお咎めは無い。
しかしながら、時代や国が変われば、見せしめとして凄惨な拷問を加えられたうえで、一族単位での処罰が下される。これは歴史を学べばすぐにわかることである。
他の例で言えば、日本では別に女性が髪形をどうしようが、それは全くもって問題とはならない。しかし宗教が変われば、それは戒律の違反となり、下手すると死罪となる。
そういう風に、世界は膨大な因数で動いており、都度ルールを理解し”じぶんを”調整しなければ、円滑に暮らしていくことなど絶対に不可能だということがよくわかる。
したがって、自分とは考え方が違う人がいたところで「そりゃそうだよね」であり、「けしからん!」という発想になる必要は、法律違反でない限り、無いのである。
もちろん僕だって人間として未完もエエとこなので、他者の言動に対し「ん?」と違和感を持つことはある。SNSをザッピングしていると、そんなことしょっちゅうだ。
とはいえ、繰り返すが法律といったルールに違反しない限り、それは個々人の価値観の問題となる。俺が不快に思うからお前が態度を改めろとか、それこそ不快極まりない。
得てして、いわゆる「価値観の押し付け」がすさまじい人は、世の中を見るフィルターが1つしかない。それはその人の価値観、言い換えればその人の正義である。
厄介なことに、そのフィルターは基本、その人自身の過去で形作られており、かつ更新されることが無いとみていい。
ヘンな話、その人が「女は肌を出すな!」という謎の正義を振りかざすとき、例えば「ファッションの一環だよね」といった理解を示すことは無い。
「いや、何言ってんのキモ」と反応されようもんなら、「その口のきき方はなんだ!」と激昂する。こういう場面、容易に想像がつく。なぜこんなことが起こるのか。
それは、歩み寄ろうという意識や発想が、その人の中に無いからだ。そしてそれが自発的に身に付くことも、それまでの人生ずっとそうしてきたと思えば、期待はできない。
だから、価値観の押し付けは止まらない。自分が正義だという思いは、頑として揺らがない。その人の世界の中心は、絶対にその人だけなのだ。永遠の天動説である。
僕だったら、そういう七面倒な人は絶対に相手をしたくない。可能なら距離を取り続けるし、不可能であっても話をまともに聞く気はない。
それは多くの人も同じではないか。だからその人は孤立する。つまり、モテることの対極に位置しているという話に繋がる。なんか悲しい帰結である。
だからこそ、僕が周りから避けられているときは、自分がどこか偏屈で頑固になり、異なる価値観を認められなくなっているのではと自省しようと決めている。
否定することがコミュニケーションの念頭にあると、人は離れる。「べきだ」を捨てねば、モテることはできない。これが今のところの暫定解という話である。
となると、この「べきだ」バイアスに陥らないよう、意識的に回避する努力を続けなければいけないような不安が募ってくる。
筋トレをしなければ肉体は衰えるが、年を取るとそれが不可逆的に加速するのと似ている。方法を知らねば、ただそれに呑まれるのを待つだけなんて、本当に嫌だ。
年をとっても、説教をする人間を嗜める側のじいちゃんでありたい。そのためにはどうしたらいいのだろうか。
・・・これについては、既に明確な答えが出ている。学ぶことを止めない。これに尽きる。常識という偏見のコレクションを捨てながら、自分をずっと更新し続ける。
諸行無常を前提として世の中に接し、できればいつも好奇心というフィルターを通して世界を眺める。永遠に9歳を通り越して、3歳児であり続けたい。
確かに、「べきだ」を語る3歳児はいない。そして3歳児に常識は存在しない。なるほど、全てが繋がっていく感覚がある。
「べきだ」を捨てるには、結局勉強するしかない。このことを改めて理解し、そろそろ訪れる年を取る日を迎えようと誓った。
では今日はこの辺で。