僕らの脳の基本構造は、原始時代の頃から変わっていないという。それ自体はそれまでの発見や研究を読むことで、特に疑問を持つことなく、理解できる。
ただ、僕は趣味でたまにキャンプをするのだが、焚火をただ眺めているとき、本能に刻まれた感情のどれもが大人しく、心の中が凪いでいるのをいつも感じている。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
原始時代は常に周りに捕食者がいる可能性があった。闘争か逃走かを瞬時に決定し、行動するために今も残っているのが怒りや不安という感情だという。
実際、周りにはクマがいるかもしれないとか、そんなイメージをもって夜の山を見渡したことがある。だがやっぱり、心中は穏やかで、いい意味で僕は無防備だった。
原始時代において、感情は実際のところ、どう機能していたんだろう。それを知る術はもう地球上に残されていないのだが、そのさわりや雰囲気なら、まだわかる。
営々と受け継がれた感情を、厄介者と受け取ることなく、むしろ一つの壮大なドラマ性をそこから感じ取れるようになりたい。
今週もまた、感情への理解を、少しずつ深めていけたらなと考えている。
- 4月22日(月) 脳はかしこいのか、それともアホなのか。
- 4月23日(火) 感情VS理性、はたまた感情with理性?
- 4月24日(水) 大人になったら丸くなる理由。
- 4月25日(木) 解釈が生む病。
- 4月26日(金) あっちじゃ普通で、こっちじゃ病気。
- 4月27日(土) 不安が”病気”になるとき。
- 4月28日(日) 不安が無い人なんていない。いるとしたらそれが異常。
4月22日(月) 脳はかしこいのか、それともアホなのか。
動物は、生存に直接関係のある目先のことへ対しては、不安を感じることができる。恐怖は何も、人間特有・固有の感情や反応ではないのだ。
一方、人間は、漠然とした、いわば抽象的な不安を、あたかも目の前で、手触り感をもって発生している事柄として考えられるという。
例えば、明日の株価はどうか、今の仕事をこのまま続けていいのか、あの子は自分に振り向いてくれるか……
これらはただの可能性(なんなら杞憂)に等しいのだが、不思議な話で、動物が持つ不安と、程度は同じなのだという。
すなわち、目の前に不良が現れたときと、将来のトラブルを心配しているときでは、実は同じストレスが脳に生じているのだ。
この不器用な感じがとてもアンバランスだが、だからこそ理性をもっと鍛えないと、僕らは感情に振り回されるのだなと、強く納得した。
4月23日(火) 感情VS理性、はたまた感情with理性?
感情の対義語は理性なのだろうか。めんどくさいので調べてはいないが、どこかそんな気がする。
ただ、現実はもう少しファジーなところもある。時には、感情と理性は協調し、互いに補いあうようなこともあるという。
これがポジティブなものならまだいいが、ネガティブな方へ作用すると、現状がどんどん好ましくない方へ解釈される。
例えば他者の言動の違和感に纏わる不安を猜疑心に膨らませ、バイアスたっぷりに観察すれば、それを確信に変える材料ばかりが集まってくる。
気付けばその人が完全なる敵にすり変わる。まさに精神疾患の典型例の1つである。得てして、感情の方が圧倒的に強く、そして強情だ。飲まれるときは一瞬である。
今の僕は理性と感情、どちらで物事を考えているか。時には手を止めて俯瞰したいと思う。
4月24日(水) 大人になったら丸くなる理由。
今日知って驚いたのだが、理性を司る機能が成熟してくるのは、大体25歳頃なのだという。
このくらいから人は感情と理性の折り合いを付けられるようになり、人としての成熟も起きてくるのだそうだ。
ふと気になったが、では僕は25歳の頃、なにか特筆すべき思考の変化を経験しただろうか。
思い返せば、テレビゲームにさほど熱中しなくなったのはこの頃だ。恋愛は自分に不要と悟ったのもこの頃だ。
漫画を集めなくなったのもこの頃だし、人間関係を広げようとしなくなったのもこの頃だ。
理性がコントロール権を握ってからの方が気持ち人生が淡白すぎるように思うが、それはつまり平穏だということ。
むやみやたらに感情に振り回されなくなったという意味では、僕は少しずつマチュアしていると考えていいのかもしれない。
4月25日(木) 解釈が生む病。
日本では不安に思うべきこととされる事柄が、国が変われば全く別になるケースは、時々あるように思う。
これは聞きかじりの話だが、統合失調症で起こるとされる脳内で聞こえる声について、それを神託と捉える文化があるという。
また逆に、英語圏では強く気にされる名詞の数について、日本語ではさして気にすることが無いように思う。
禅問答めいているが、僕が色々不安や憂鬱さを抱えているときは、目の前の出来事にそうラベリングしている自分がいるという話だ。
どうすればそのレッテルを剥がせるかが、今の自分が考えるべき最たるテーマだと感じている。
4月26日(金) あっちじゃ普通で、こっちじゃ病気。
メンタルの不調を改善する療法や薬について、その進歩や開発については、足並みがなかなか揃わないそうだ。
その理由はやはり、何が普通で何が病かが、文化により異なるというその特性だ。あっちじゃ普通でこっちじゃ病気というのがあると、モチベーションにはムラが生じる。
例えば日本では、タコやイカを好んで食す。僕も大好きだし、特に天ぷらと刺身が抜群に旨いと感じている。だがこれら頭足類は、世界的には不人気な食材なのだという。
生で食うのなんかあり得ないという価値観らしく、その文化圏の価値観フィルターを通して観察すれば、僕らは異端であり、超絶な変わり者になってしまうだろう。
とはいえ色々な価値観とその変遷を知ることは、【歴史思考】にもあったが、心を整えて悩みを客観視するのにとても使える考え方そのものである。
まさかこんなところで繋がってくるなんてと、すごく意外で面白いことを感じている。
4月27日(土) 不安が”病気”になるとき。
不安は人間に標準装備されている感情だ。だからそれ自体は病気でもなんでもないはずなのだが、はっきりと病的なそれを抱えていると見て取れる人も存在する。
その境目はどこにあるのか。それ自体はとても曖昧なのだが、一応定義としては、数ヶ月以上、不安な感情が強く付き纏い、日常生活に支障をきたすという感じだった。
しかしそれも、”何が”不安なのかで話はまるで変わる。巨大な事業計画やイベントの準備などで数ヶ月不安にさいなまれる人はいるが、これは果たして病気なのか。
むしろ、それをケロッとする方が、僕は病気だと思えてならない。不安に乗っ取られたらマズい話だが、僕は常日頃からある程度の不安を抱えているくらいで丁度いい。
4月28日(日) 不安が無い人なんていない。いるとしたらそれが異常。
原始的な暮らしをしている部族は、現代的な生活を知らないとされる。それはつまり、悩みが少ないということだろうか。
彼らは株価の変動を気にしない。職業が失われるリスクも気にしないし、学歴が得られるとか得られないといった話も、無縁といえば無縁だ。
だが、だからといってそれが悩み自体少ないなんていうのは、あまりにも問題を単純化しすぎている。
例えば彼らは野生動物の襲撃に神経を尖らせるが、僕らは日頃、そんなことを気にすることはない。
人はその時々の状況において、備えのために必ず悩むと言っていい。悩まない方が、どこか異常なのだ。すごくほっとする話である。
では今週はこの辺で。