私事だが、最近また一つ歳をとった。遂に男性の平均初婚年齢の数値を超えてしまい、なかなかに現実的な年齢になってきたなと、少しだけ感じている。
ありがたいことに、同級生、後輩、先輩、生徒たちからお祝いのコメントをたくさんいただき、歳を取るのも良いことがあるもんだと、そんな他人事な感想を持った。
さて。今の校舎を引き継いで約半年。頭上にダモクレスの剣があるような恐怖をずっと感じていたが、最近は多忙で麻痺し、それを忘れていることにふと気が付いた。
自分のやり方が間違えば、校舎が無くなる。存亡について預かるからこそ責任者なんだ。大袈裟すぎることは自覚しているが、そうやって自分を脅してきた。
改めてそのシビアでドライだが当たり前の現実に向き合ってみると、お祝いのコメント一つ一つに、違う意味合いがあるように思えてきた。
僕は、ここに「在ること」に対しても、大きな責任を負っているのではないか。ふと頭上を見れば、ダモクレスの剣は必ずそこにあるのではないか。
今日はそんな、被害妄想にちょっと突っ込んでる気もする、仕事のお話である。
「在る」ということ。
ここからの話は自分の中でも漠然としており、上手く言葉にできる気がしないのだが、せっかくなのでそのまま書いておくことにする。
さて。今現在の激変し続けている世の中を眺めていると、「変わらないこと」は愚かな選択かつ行為という風に思えてくる。
現状維持は衰退であり、あらゆるものが泥舟に変わるような時代である今、八艘飛びを繰り返すようにポンポンと移り変わらないと、どこかで必ず沈んでしまう。
だがそれに反比例するように、「在ること」の価値も確実に高まりつつあるというのを、薄々感じてもいる。これについては、体験談がある。
僕が好きで、何年も通っているバーがある。通っているといっても頻度は年に3~4回なのだが、帰省するたびに立ち寄るほど好きな店である。
しかしそこが、今年のGW頃に、あわや閉店という事態にまでなっていたそうだ。理由はわからないが、人材不足が原因のようである。
ただその状況は7月頃から落ち着き始め、そして最近になると完全に持ち直したようで、友人から「時短もせずに営業してるよ」という嬉しい連絡を受ける程となった。
このとき僕は、その店が消えず、「在ること」が決まったことに、すごく感謝した。そしてすごく喜ばしいことだと思った。
―そのとき、不思議と心の中で固まった決意がある。それは、意地でも今の居場所を潰さないというものだ。僕で言えば、預かっている校舎である。
たとえその中で提供しているもの、さらに言えば人、そもそも言えば借りている建物が変わろうとも、”居場所たるもの”は存続させないといけない。
肉体は滅んでも、魂は死なないという感じだろうか。大袈裟だが、僕はそうしなければならないという風に、その出来事を通じて一つ覚悟が決まっている。
最近記事にすることは無くなったが、僕は独立という夢をまだ持ち続けている。さらに言えば、去年より遥かに具体的に、その計画を推し進め始めている。
だがそれが同時に、僕らが創ってきた今の場所を潰す結果にしてはいけないと、そういう危惧も抱いている。誰に託すか。そこまで決めねば、僕は独立できないだろう。
その上できちんと役目を果たし、自分の夢という名のワガママに正直になる。講師引退という道筋も、いわばその途中過程なのだと捉えている。
「在ること」の責任。ここはたとえ心がしんどくなろうとも、逃げずにじっくり、自問自答を重ね続けたいと思う。
そんな重たいことを誓った誕生日であった。
では今日はこの辺で。