塾講師は突発的にスケジュールが空いて暇になることがある。生徒が体調不良等で休んだときが、その一例だ。
そして今、棚ぼたでコマが空き、暇を持て余している。夏季講習中は繁忙なのが目に見えているため、授業以外の仕事はなるべく入れないようにしているためなのもある。
本来であれば、仕事を一気に処理できるため、こういう空き時間は歓迎するべきことなのかもしれない。だが、既に自分の勉強は済ませたし、日報を書くにはまだ早い。
完全にすることが無く、つまり暇なのだ。こういう状況になったのはすごく久しぶりなので、少し新鮮な気持ちにもなる。
・・・だが同時に、自分の中にむくむくと不健全な感情が、カサブタを剥いだ後の血の如く、心の底から滲み出てくるのを感じている。
さっきから自分のメタが五月蠅い。生産性の無い時間は悪じゃないのか?今のお前は給料泥棒じゃないのか?やることが無いのは甘えではないのか?
だからこそ、暇な時間は本当に嫌いだ。思えば昔から、もっと言えば小さい頃からそうだった。だから色んなことを詰め込んで過ごしてきたし、今も本当はそうしたい。
だが、僕はむしろこの好機に、退屈という時間の中へ身を沈めるべきなのではないか。そんな風に冷静に考えている部分もある。
退屈な時間が教えてくれること。それにもっと耳を傾けたい。今日はそんなお話である。
何かが切れたとき。
日頃から何かに打ち込み過ぎると、それが無くなったとき、心身に不調を来すことがある。わかり易い例は、アルコールやカフェインといった成分に関するものだ。
他にもギャンブル依存症もそうだろうし、人によってはもっと個人的なそれが存在するかもしれない。それくらい、ずっと続けたものが切れると、ダメージも大きいのだ。
ずっと蓋をして隠していた疲労や感情が、堰を切ったように飛び出してくる。それに耐えるには、シラフでは無理。だからまた酒や娯楽で、それらに蓋をする。
蓋の強度が不十分になってきたら、更に量を増やして対応する。すると圧が高まってストレスが溜まり、封じられた感情の強さがまた増大する。
更に圧力が高まり、蓋が吹き飛びそうになれば、またたくさん酒を仰ぐなどして、それをまた押し込める。そうなるとどうなるか?他のところが爆発するだけだ。
肝臓が壊れる。人間関係が壊れる。こんな風に、依存していた何かが切れたとき、劇症が心身を襲う。
だからこそ、その治療には、強固な意志と長期のケアが求められるのだろう。やはり、そうなってからでは遅いのである。
こんな風に、自分が無理をしていて、何かしらの感情なり疲労なりを封印しているのに気づかないままでは、どのルートを通っても、いずれ必ず崩壊に辿り着いてしまう。
では、自分が破綻する前にそれに気づくためには、一体どうすればいいのか。実はその方法はシンプルで、身体が発しているSOSサインに耳を傾けることである。
最近よく眠れない。よくお腹を壊す。よくネガティブな考えが頭を支配する。その全てを、身体からのSOS信号として解釈し、受信する。
あとはその声に従って無理をせず、休養をしっかりとって、気分転換をきちんと挟むこと。そうすれば理論上、心身は健やかなままで過ごせるという理屈となる。
・・・ところが、何か別のモノで自分の素直な体調を無視する期間が長いと、自分の身体の声に対するアンテナの感度が、完全に鈍ってしまう。全く聞こえなくなるのだ。
だから、例えば酒に酔った状態で自分の身体の声に耳を傾けようとしても、どこも痛くないし、なんなら楽しいので、現状を否定する理由は何も拾えない。
それと同じで、仕事をバリバリ入れている状態で自分の身体のメッセージに耳を傾けても、空気を読んだメタは「イケるっす」という返事をするに決まっている。
したがって、それを真に受けてはいけない、と。そうならば、新たな問いが生まれる。ではどのタイミングで、自分の声に耳を傾けるべきなのだろうか。
その答えこそ、僕は「退屈な時間」だと考えている。完全に手を止めて、酒なり多忙なりパチンコなりに触れていない時間。ノイズが消えるのは、そこしかない。
実際、空き時間ができたと解った瞬間から、身体に猛烈なだるさがのしかかってきた。心身にかなり疲労が溜まっている、つまり無理をしていると、改めて実感した。
自分に体力が無いのではと自己嫌悪したい気持ちもあったが、そもそも繁忙期に突入して1ヶ月以上経っているので、何かに無理が出ない方がおかしい。
そんな当たり前のことも、何かで気を紛らわせすぎると、忘れ去ってしまう。人間の身体の強さと不思議さ、そして弱さをつくづく実感させられる。
もうすぐ連休なので、そこでしっかりと自愛しようと思う。そのことに気付けたという意味では、退屈な時間も悪くない。
では今日はこの辺で。