精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

できることは全部する。それでダメならまた考える。覚悟ってつまり行動なんだなと、ふと思った。

本当に不思議なのだが、ここ数日急に、ある種の使命感というか、自分がやるべき役目というものが、急速に腑に落ち始めている

 

ちょこちょこ仄めかしているが、僕はこの春に一応昇進し、一つの支店を任されている状態だ。しかし講師として授業を受け持つ時間もそのままなので、単に倍忙しい。

 

講師としてやるべきこと、校舎を預かる者としてやるべきこと。その二つが目減りすることなく積み重なり、つまり何を僕は果たすべきなのか、一時期完全に見失っていた。

 

だからたくさんの本を読んだし、たくさん自問自答もした。だが答えをさして得られぬまま、割と長い期間を過ごし、もやもやした気持ちを抱えてきた自覚がある。

 

―のだが、最近それが急に腑に落ちた。大袈裟だが、つまり僕は何をするために昇進したのか、その意味が分かったという感じだろうか。

 

もちろん気のせいかもしれない。だが、実は合っているのかもしれない。今日はその腹落ちに至るまでの経緯と、今感じることを、なんとか言葉に落とし込んでみる。

 

 

僕の”する”べきこと。

 

僕がするべきことはよくよく考えればすごく単純だった。それは、とにかく職場にいる誰よりも、俯瞰的に現状を見ることだ。

 

誰よりもスキルとして上回っている必要は必ずしもないが、誰よりも広く・深く現状を理解している必要は、絶対にある

 

プレイングマネージャーが、ある意味マネジメントの形態として▲なのは、どうしても近視眼的になってしまうからだ。現場の声は拾えるが、現場の声しか拾えない。

 

現場の声を集め、自分なりに編集し、会社としてトクをする形で打破をするための一手を考える。つまるところ、これなのではないか、と。

 

僕の中のイメージは、完全に遊戯王の一場面に置き換えられる。知っている人は少ないと思うが、闇獏良と闇遊戯がボードゲームで対戦する回を想起させる。


その前提に立つと、例えば現場にひたすら居続けるのも無責任だと思えてくる。問題が見えたら一緒に酒場で愚痴るのではなく、多角的に分析して打開策を探すのだ。

 

現場のスタッフは思い切り近視眼的に問題に当たってくれればいい。僕の仕事は、その裏に隠れる真の原因や目的に意識を向けて、仕組みとして対応していくことだ。

 

―ところで、急にスピリチュアルな話になるのだが、僕は狙いすましたように、神から追試を食らっているような気分になることがある。

 

例えば生徒制御。とある問題行動が目立つ生徒となんとか折り合いをつけたと思ったら、別の生徒がギャング化して声掛けに難儀するようになっている。

 

一つ解決すれば、新たな問題が絶対に立ち上ってきて、僕を安堵させるということが全くない。4月頃から、ある意味精神の自転車操業がずっと続いている。

 

僕の目の前には、常に2~3個の難題が転がっている。どうせ転がっているなら、淡々と、少し歯応えのある数学の問題の様に解釈できるようになりたいと思う。

 

ではそのためには、どうすればいいのか。それも課題に含めれば、僕の人生は課題だらけであり、解決とはつまり問題を抱えたまま死ぬときだとさえ思えてくる

 

悲観というより、達観や諦観に近い。受け入れれば道は開けるのだろうか。それかあるいは、厭世的な思考法に呑まれるだけだろうか。

 

2020年頃、必死に昇進したくて、矢で射られ泥を被るような365日を過ごしたことがある。しかしその願いは届かず、そのときは本気で挫けそうになったものだ。

 

ただ今は、あらゆる行為のケツを僕が拭けるようになった。拭けるからには、行動してナンボだ。その意を改めて強くせねばらないということかなぁ。

 

できることは全部する。それでダメならまた考える。覚悟ってつまり行動なんだなと、ふと思った。

 

終業後に頭がぼーっとするのを感じつつ、思うことを書いてみた。いつも以上に脱線が目立つが、まぁいいだろう。

 

では今日はこの辺で。