最近本当に何の気なしなのだが、Twitter(Xか)等で炎上しているネタにコメントをするというショート動画に、しばらく見入ってしまった。
特に印象に残ったのは、「炎天下で汗だくのまま屋台で働く姿は不快!プロ失格!」という感じの、ヤバめのじいちゃんかばあちゃんに対する一言だ。
それは、「一文一文がきしょい」というコメントだった。それを読んで、一人で軽く噴き出してしまった。そして同時に、何故か僕は、救われる感覚を強く抱いた。
「あー、無駄なストレスを減らす思考って、こんな感じなのかなぁー」と、その端緒を掴んだような感覚である。
今日はそんなお話。
真面目に取り合わないって、どうやればいい?
小中学生の頃はそうでもなかったのだが、今はアンチによるコメントそのものが凄く苦手で、目に入るだけでしんどくなってしまう。
何故かというと、支離滅裂な日本語と、上げていない揚げ足取りに終始する様子を見ていると、「なんでこんなこと思うんだろう・・」と思わずにはいられないからだ。
哀れみと苛立ちと同情と、言われた側のメンタルへの影響。その全てがもうもうと立ち込めてきて、すごく疲れるという感じである。
どうやってそれに対処するか。僕は今のところ、徹底してそういうコメントをミュートにしたりブロックしたりすることで躱しているが、そこをすり抜けるものも多い。
だからそもそも論、それらに対する反応を変える必要があるということはわかっていた。しかしながら、それを阻害するものにも気付いている。自分自身の生真面目さだ。
「アンチみたいなコメントはあしらえばいい」と言われるものの、その度に僕はこう考えていた。「あしらうって、どういうこと?」と。
相手の言い分の穴を探し、そこを認識したうえでスルーするというプロセスを踏まなければ、感情的に反応しているだけのあっち側と同じではないか。
そんな病的に生真面目なことを考えていた。
だからしっかりコメントを読まねばならず、結果としてそこに練り込まれた負のエネルギーを受信し、疲労する。その繰り返しだった。
―そんな中であった例のショート動画。相手するに値しないコメントは、「きしょい」という一言で良いというのは、自分にとって目からウロコだったのだ。
僕はもうちょっとくらい図太くて良い。相手に、コメントに、都度興味を持つ必要などない。そういうところまで、僕はメッセージとして感じ取った。
「どう思う?」というコメントには「しらねーよ」という返事があっても良いし、「改めるべきだ!」というイチャモンには「うるせー」と流しても良いのだ。
絶対に受け止めてからリアクションをするという、そんなプロレスなことは要らないのだ。物凄く心が楽になった。
「なんでこんなことを思うのだろう?」「なんで人が傷つくコメントを平気で吐けるのだろう?」という疑義すら唱える必要ナシ。
「相手にしなければいい」というアドバイスの本質が、ようやく見えてきた。少なくとも、その輪郭は見えている。
この仮説を通して色々な人の処し方を見てみると、確かになんでもかんでも真面目に受け止めて、真摯に返しているわけ”ではない”ことがよくわかる。
やたら上から目線で独り善がりの「お客様からの声」には、紋切型のビジネス敬語をコピペして「対応した感」を出しておく、というのが一例だろう。
これを手札に、いつも忍ばせておけば、本当に平穏な人生になるんじゃないかなと、そんなことを夢想してしまう。
相手にしているようで、相手にしていない。この思考・言動にどうすれば近付けるか。これもまた、次の年齢の課題だなと思う。
では今日はこの辺で。