精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

手がかかる子にストレスを感じてしまう理由は死ぬほど簡単。でもそれに対処するのは超難問。

どうでもいいのだが、僕は結婚をするつもりがない。子供が欲しくないからだ。そして僕が子供を欲しくない理由は、多分ストレスで死ぬと予測しているためである。

 

夜泣きで起こされる時期がきて、それが終わっても保育園だ幼稚園だと奔走し、学校が始まればコミュニティに属せるかヒヤヒヤし、思春期になれば喧嘩をする。

 

もちろんそうではないイイ子が産まれる可能性もあるだろうが、半分は僕の遺伝子だと思うと、絶対に僕の子供はめんどくさいヤツになる。そう確信している。

 

そんなのと一緒に暮らしていると、僕はうつ病まっしぐらだろう。誰かと暮らすことに全く適性が無い僕に、子供は過ぎた存在なのだ。

 

・・というイメトレという名の妄想をしていると、ふと思う。手がかかる子は何故そう思ってしまうのか。そして何故、そこまでストレスフルな存在になってしまうのか

 

「当たり前じゃん、常識だよw」と煙に巻くのは簡単だが、それを言葉で説明しろと言われれば、窮する人は多そうである。僕もまたその一人なのだが。

 

実のところ、手がかかる子にストレスを感じてしまう理由は死ぬほど簡単だ。でも、それに対処するのは、超難問でもある。

 

今日はそんなお話を書いてみる。

 

 

「期待」が生む強いストレス。

 

その根本原因は、「期待」だ。対人関係のストレスは全て、他人に期待し過ぎているから起こるのだと指摘するブログや本は非常に多く、僕もそれについては同感だ。

 

手がかかる子がそうである理由は、社会や自分が求める像にその子を近付けるための努力を、こちらに要求されるからである。

 

例えば受験をさせたい親がいて、子供が受験をしたくないという場合。そのために手を変え品を変え説き伏せたり、衝突したり。これはなるほど、”手がかかる”。

 

ここには、「いつかわかってくれる」という期待がある。そしてその「いつか」は、実際のところ、長くて数日とかそれくらいのスパンであることも多い。

 

数日で人の性格が変わるわけがない。数日の柔軟体操によって、劇的に身体の可動域が増すわけじゃないのと同じだ。その性質を無視すると、どうなるか。

 

授業中は静かにすべきだ。黙々と作業すべきだ。勉強は毎日2時間以上、親が見ている前でやるべきだ。親の言うことは聞くべきだ・・・。期待は次々に生じ、際限がない。

 

べきだという「期待」にそぐわなければ、当然介入が生まれる。介入には自然と、衝突が伴う。エネルギーが食われる。だから、”手がかかる”。

 

期待はすべての元凶である。すべてはここに収斂するため、手がかかる子にストレスを感じる理由は、死ぬほど簡単なのである。

 

「期待」を下げられない事情。

 

では、ここまで原因がはっきりわかっているなら、対処するのは一見楽そうに思われる。しかし、そうもいかないのが、手がかかる理由の、もう一つの側面となる。

 

それは他人の目だ。例えば多動性・衝動性が強い子は、じっとしていることが苦痛で、突発的に教室から飛び出したり、机と椅子をがたがた鳴らしたりしがちである。

 

これについて、「ADHDってそういうもんだよね」という知識と理解があれば、別にそれを無理矢理どうこうする必要はないので、手は全然かからないはずだ。

 

しかし、その認識が無い大多数のご家庭からすれば、「授業妨害!」だし「迷惑行為!」なのである。だから管理者たる大人が、一生懸命なんとかしようとする。

 

とはいえ、そういう特性をコントロールすることは、特に年齢が低い頃は、不可能に近い。50分もあれば、絶対に4~5回はそういう行動を取ってしまう。

 

自分が無意識にやってしまうクセを意識的に制御するのと同じだ。大抵は行動をした後に、「あっ」と気付いてしまうことが多いだろう。

 

実際、音を立てるような行動や、立ち歩きを叱った後に、またそれを繰り返す生徒は非常に多いのだが、その際のコメントはそっくり同じ。「あっ」なのだ。

 

すなわち、本人たちに自覚は全くないということである。僕らでいうまばたきに近いのが、彼らで言う多動的・衝動的な行動であり、白い目で見られがちなあれこれなのだ。

 

だから、教室をバラバラにしたり、一定のルール下でエスケープを認めたりと、最近の対応策のトレンドは「妥協」であることがほとんどだ。

 

何十もの記事を読んできたが、どこもかしこも、最初からそういう行動をゼロにすることは”期待していない”。ちょっと変わった子、程度の認識にできれば御の字なのだ。

 

行動を迷惑とならない範囲に収め、また椅子に消音加工をするなど、その行為によって生じるデメリットを工夫で消すことに注力すれば、それでいいはずなのだ。

 

ただそれは、ルールにちゃんと従う子からすれば「なんであいつだけ!」という、不満の種となる。不満は教師や講師の発言から、一切の信頼を奪い得る最悪の要素だ。

 

だから本当はADHDといった事情も言いたいのだが、それは倫理的にどうなのかという、別口のめんどくさい問題にぶち当たる。

 

手がかかると一言で言っても、しがらみがあちこちに広がっているため、その根深さは想像以上である。本当は僕だって、言ってもあんま意味ないことを言いたくはない。

 

だが言わないと、「問題行動を放置しないでください!」というクレームになる。実際一回あったので、こちらとしては頭が痛い話である。

 

教師や講師が心を病んでしまう原因は、どうにもならないことをどうにかしようとして自分を責め続けることにあるとよく言われる。これが最たる例の一つだろう。

 

サイコパス的な思考をもっと自動的にできるよう、しっかりと練習が必要かもしれない。そんなことまで、ふと思った。

 

では今日はこの辺で。

 

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