僕の洋書デビューは確かフェルマーの最終定理だったと思うのだが、やっぱりサイエンス系のドキュメンタリーが一番好きだと自覚している。
【素数の音楽】を読んで以来、こちらのマーカス・デュ・ソートイ氏の著書にも興味があり、その中の1つを直感で選んだ。
「THE GREAT UNKNOWN」。タイトルからして心が躍る。理科と数学の側からは好かれなかった僕だが、僕はめげずに理科と数学を好きだといい続けたい。
400ページ以上ある大著だが、それゆえに楽しみだ。では以下、本題である。
- 8月7日(月) オセロの如く未知を既知にする。
- 8月8日(火) 巨人の肩に乗る巨人の、肩に乗る。
- 8月9日(水) わかるから楽しいのか、わからないから楽しいのか。
- 8月10日(木) いざ、知識の境界線へ。
- 8月11日(金) 「神」とはなにか。
- 8月12日(土) 完全なるランダム。
- 8月13日(日) 真理は神の手の中?
8月7日(月) オセロの如く未知を既知にする。
著者が教授職を得るか得ないかくらいのタイミングで、化学と数学、物理学、生物学とあらゆる分野でブレイクスルーがいくつも起きたそうだ。
未知の粒子の発見、フェルマーの最終定理の証明、ポアンカレ予想の証明、ゲノムの解読、等々。
知の限界がどんどん押し広げられていくかのような快挙に沸き立つ一方、著者はふと不安になったという。
なぜかというと、自分が生きている間に、未知が全て既知に変わる気がしないという、人生のあまりにも短いスパンを自覚したからだそうだ。
【観察力の鍛え方】でも書かれていたが、健全な問いは、解いても次の問いに繋がる。永遠に「わかった」が来ないのだ。既知が広まれば、それは同時に未知も広がる。
わかることは確かに心が躍るが、本来は不安がそこにセットなのかもしれない。だがその不安は好奇心の一端だと考えれば、無限の暇潰しを得たに等しい。
科学の意味合いが自分の中で更新されそうだ。明日も読むのが楽しみである。
8月8日(火) 巨人の肩に乗る巨人の、肩に乗る。
「巨人の肩に乗る」というニュートンのセリフ。実はこれ、手紙を送った相手へのそこそこパンチの効いた悪口だそうだが、科学の本質を凝縮したようなフレーズである。
昔、メンタリストDaigo氏が、「人の研究ばっかり紹介して、たまには自分の研究を紹介したらどうなんですw」というコメントをぼこぼこに論破した光景を思い出した。
開口一番、「この人は科学について何にもわかっていないですね」とバッサリ。
その上で、「全ての研究は先行研究があり、それを引用したり改良したりして新しいことを調べていくのが科学」と言った風に指摘していた。
そして、「本当にその人の独力だけで成し得たことって、マジで大したことないんですよ」と結んでいた。はた目から見れば、完膚なきまで絡んできた側の負けである。
文系でも理系でも、卒業論文を書いた経験があればわかると思うが、先行研究を参照しないと、ろくすっぽ論文を書くことなんてできやしない。
自分オリジナルの考察ばかり書いたものは、論文ではなく、よくて随筆だろう。そんなことを改めて思い出した。
巨人の肩に乗る巨人の、肩に乗るノミで良いので、僕も少しくらい遠くを見たいなと思う。
8月9日(水) わかるから楽しいのか、わからないから楽しいのか。
ニワトリタマゴな話だが、「わかる」を目指す方が楽しいのか、「わからない」を追うのが楽しいのか、そんなことが書かれていた。
これについて持論を書くと、最初は「わかる」を目指した方が絶対に楽しいと思う。与えられた課題がわかり、その正解率が上がるにつれて、確かに自信がつくからだ。
しかしある程度の閾値に辿り着くと、自分で未知の分野を切り拓いていくことが楽しくなるフェーズに必ず至る。そこからは、「わからない」ことが原動力となる。
まとめれば、初心者~中級者までは、体系化された知識を真似して自分に落とし込むことを楽しめばいいし、上級者になれば、自分だけの理論を打ち立てていけばいいのだ。
基礎基本に当たる知識や技能がなぜ大事なのかというと、自分なりの「わからない」を追うための基盤になるからだ。そんなことを今は考えている。
8月10日(木) いざ、知識の境界線へ。
例えば、人は必ず死ぬ。そんなことはわかっている。だが、なぜ人は必ず死ぬのか。その答えを持つ者はいない。これがいわば、既知の無知である。
知るという言葉を二回使うからややこしいのだが、つまり自分たちが理解していないことを分かっていることが、既知の無知ではないかと思う。
その境界線まで意識的に旅をして、そこから先を悪戦苦闘しながら進んでいく。そうやって知恵の境界線を押し広げる。科学の発展のイメージとして、すごくわかり易い。
ただし、1900年代頃には、あらゆる分野は既に登場し、あとはそこにどんな肉付けをするかという風に楽観視されていたときもあったそうだ。
その数年後にはアインシュタインが登場し、ニュートンによる重力の説明を覆す発見と予測をすることになるので、進歩とはなんと心躍る話だろう。
本編は間もなく始まりそうだ。理解できる気はしないけど、知恵の境界線まで、僕も興味津々で旅をしてみたいと、ワクワクしている。
8月11日(金) 「神」とはなにか。
「神」とは、昔の人が人智の及ばない事象を説明し納得するために創り上げた、一種の万能薬のようなものだと感じていた。
宇宙があんなにも広大で手が届かないのは、神がそうしたから。(つまり考えても無駄)という風に、僕はどこか、思考の放棄もセットになっていると思っていた。
だからこそ、それに新しい理論で立ち向かおうとしたコペルニクスやガリレオは、無視されたり迫害されたりと、散々な目に遭ってきたのだ。
しかし著者のマーカス氏によれば、「神」とは、そこにまだ説明のついていない事象があることの目印ではないか、とも考えられるようだ。
そしてこちらのモデルの方が、すごく腹落ち感がある。
僕らが神のせい(おかげ)にするとき、中にはもちろん本当に偶然だとか考えても無駄何もあるが、それは無知のサインなのだ。すなわち、調べてみると面白いかもしれない。
今後僕が神という言葉を使う時、そこには自分の中で折り合いがついていない問いがあると考えて、自問を始めてみる。新しい一人遊びを発見でき、嬉しく思わされる。
8月12日(土) 完全なるランダム。
数学者でもある著者は、サイコロの美的な造形にうっとりする一方、出る目が完全に予測できないという徹底したランダム性が大嫌いなのだという。
そもそも、ランダム性とは何なのだろうか。人智を超えた何かなのか、それともうっかり考慮すべき変数を見落としているからそう見えるだけ、なのだろうか。
例えばサイコロを振るときの手の角度、地面と衝突する箇所、威力、その他もろもろをシミュレートすれば、出目を予測することは可能ではないか。
とはいえ、そこまでしなければ予測できない時点で、人間業を遥かに凌駕していることから、もうランダムと割り切ってそういうものと受け止めた方が楽ではないか。
探求と実益のせめぎ合いをすごく感じる。そして話はそのまま、カオス理論というところへ展開しそうである。わかりそうでわからない、カオスの話。
僕の知識が追い付くかどうかはわからないが、頑張って食らいつきたいと思う。
8月13日(日) 真理は神の手の中?
サイコロを数学的に解き明かすことは、神に対する挑戦。そんな気がするほど、太古より人々はそのランダム性に面白さと不可思議さを感じていたのではないか。
現在のパキスタン北部でサイコロは今の形になり、そのランダム性がため様々なゲームが考案され、古来より多くの人を魅了してきた。
古代ギリシャの数学者でさえも、「いや、これの規則性とか突き止められねーわ」という感じか、そもそも挑もうとさえしなかった、というほど、神秘性が強い。
これほどゲームとして親しみがありながらも、誰からの挑戦も退け続けるものってのは、そうそう存在しないのではなかろうか。
実際、確率という摩訶不思議な単元を研究する端緒が開かれたのは、中世になり、ある数学者の登場を待たねばならなかったほどなのだから。
―ということで今日はこの辺で。