テレビのクイズ番組か何かの影響か知らないが、「知っていること」の価値や影響力、ブランドは、依然としてすごく高水準にあると思う。
ただここ数年は同時に、インターネットの普及に合わせるように、「知っているだけの状態に、意味はないよね」という論調も目立つようになってきている気もする。
そしてそれに便乗して、「知っているだけのヤツw」とマウントを取ることに使おうとしている輩も、ここ最近は多々登場しているように思う。
その論を読んでみると、「調べれば出てくるのを覚えるのは情弱」とか、要は無駄なことをしているという風に吹聴して、なんか言いたいのだろうなという印象が強い。
だがつくづく、こういう思考をしていると、目も当てられない勢いで格差は開いてしまうよなと、そんな危うさを感じてしまう。
今日はそういう、「知る」ことについて思うことを、つらつらと書いてみる。
知っていること自体に価値があった時代は、別にない説。
そもそも論だが、何百年も前から、別に知っていることそのものに価値があったわけではないと思う。どちらかと言えばそれは、選別の狙いがあったのではないか。
例えばこのコミュニティに属したければ、共通言語として古典や漢詩にある程度の造詣は持っておきなさいよといった、いわば参入のための資格と捉えた方がしっくりくる。
実際、古典作品をちょっと読むとわかるのだが、文学を知っていることに加え、場面に応じてそれを引用することが、本当の意味で才ある人の言動だと思う。
枕草子にも、定子からの一言が漢詩か何かの引用だと気づいた清少納言が、実際にそれに読まれた行動を再現し、「風流」と評されるシーンがあった。
この辺から感じ取れるように、実は「知ってるだけに意味はないww」という話は、1000年前くらいからそうだったのではなかろうか。
上記の例で言っても、定子に仕えている時点で、他の女御たちがこういう知識に無知なわけがない。求められたのは機転であり、知識量ではないのだ。
このことは何も文学に限った話ではない。例えば将棋の戦略や棋譜は、”調べれば出てくる”物の一つだが、実戦で使えないと、やはり何の意味も持たない。
同じように、あらゆる情報は知識として検索すればいくらでもヒットするのだが、それは文字通り、「知ってるから、何?」という話なのである。
調べれば出てくるんだから覚えても無駄という人は、ある程度以上のコミュニティに参加する資格を、自ら捨てているのと同じだ。心構えからして、ねぇ。
こういうのを考えると、「言わせておけ」というあしらいのコメントが、また違った意味を伴って立ち上ってくる。それについては、今は別に書かないけど、さ。
「知っているだけ」を脱するにはどうしたらいい?
では、知っているだけ状態を脱するには、一体何を心掛ければよいのか。それは、斎藤一人氏の言葉に学ぶと、すごく腹落ち感がある。
人の言葉をそのまま語ったり、ネットや本の知識をさも自分の手柄みたいに伝えるだけの人は、一人さん曰く「紛い物」なのだそうだ。痛烈過ぎて面白い。
それを脱するには一にも二にも、とにかく「やってみる」ことが全て。一人さんはそう説いていたが、それについては完全に僕も同意する。
知識を再現しようとすると必ず、思っていたのと違うという違和感を得る。それを解消するため、自分なりに新たな仮説を作り、それを検証し、また別の違和感を得る。
それを繰り返すと、知識から出発して経験値に変わり、そしてその経験値はその人にとって唯一無二の貴重な学びになっている。
例えば、野球の基本動作は投打共にほぼ限られたものに収束するはずなのに、プロ野球選手の動作一つ一つは、驚くほど似て非なるもので、文字通り千差万別だ。
基礎は誰でも知っている。だがその知識にどれだけ、経験値で肉付けをしたか。これが全てなのではないかと思う。
「調べれば出てくるんだから覚えても無駄」という風にどこか斜に構えている限り、永遠にこういう大事な経験則は得られない。
さらに言えば、ただ知っているだけのヤツ(暗記が得意なヤツ)は、実践を重ねれば秒で追い抜けるということでもある。
これらを考えても、知ってる状態になった瞬間、とにかくそれをやってみて、違和感という「わからなさ」に置き換えるくらいが丁度いいのではと思う。
これは筋トレと同じで、最初は結構意志の力を求められてキツいワークになるのだが、ある程度繰り返して日課になると、「知ってる」とは容易に言わなくなる。
ということでやはり、まずは良いからやってみる。これがシンプルな真理なのだろう。雑に聞こえて、すごく含蓄ある言葉だなと思う。
では今日はこの辺で。