ストレスを少しでも減らす努力には、1日も欠かさず取り組んでいる。無駄な体力や精神力を削られなくすることは、体力の総量を増やすより大事だと思うからだ。
特に去年くらいからずっと言っているのだが、僕は幼少期や、ADHDを持つ子供に特有の行動のいくつかが凄く嫌いで、それに触れると猛烈な苛立ちを覚えてしまう。
教室にやってきた瞬間脱走してちょこまかと走り回り、モノを叩いて音を出したり、ドアノブをガチャガチャしたり、ぐにゃぐにゃと脱力してイスに座れなかったり。
そういった行動が許し難い自分も不思議だし、そういうのを「子供ってそういうもんじゃん」と優しく受け止められる人も本当に不思議だ。
鬱に突っ込むほどではないが、日頃の業務におけるストレス源の大部分を占めているため、ここにもうちょっと折り合いを付けられれば、もう少し平穏に働けるはずだ。
多動・衝動・ワガママ・反抗、そういった不可思議な言動。好きになる気はさらさらないが、せめて、もうちょっと上手にスルーしたい。そのためにはどうすればいいか。
これについて今まで何度も自分なりに仮説を作り、そしてそのそれぞれに手応えがあるのも実感しているのだが、やはり60点の理論をいくつも作っている感じが否めない。
自分の心に手を突っ込んで、答えっぽいものを引っ張り出すことには限界がある。もっと他人のコメントやデータに触れないと、解像度は上がらないと思った。
だから国内外問わず、器が大きい人はこの気になって仕方がない言動をどう受け止めているのか、研究論文ではなく、一人一人の感情が掛かれた記事を読みまくった。
―すると、思わぬ副産物があった。ただそれだけで、心が凄く落ち着いたのだ。いわば、「自分だけじゃない」という実感が得られて、それですごく気が楽になった。
これは同時に、「なぜ俺だけがこんな目に」という孤独感によるストレスを御するためのヒントになっているのではないか。
今日はそんなお話を書いてみる。
感情に込められたヒント。
ちなみに、そういった言動をなぜ容認できないのか、その理由自体は既に言語化できている。
それは、そういった言動でクレームが来ないかとヒヤヒヤするからだ。うるさい子がいるとか、ヘンな行動で集中できないとか、そういうやつ。
さらに言えば、調べれば調べるほど、そういった言動はゼロにはできないことがよくわかるから、というのも大きい。
つまり、そういった言動でクレームが来たら塾に非があると取られるのに加え、それらはこちらの声掛けで減らせられど、ゼロにはできないのがその理由なのだ。
個人的には、色んなものが発達の途上なんだから、多少謎のことを言ったり、謎に音を立てたり、嫌いな勉強を嫌いと言ったり、それくらい普通だと思っている。
しかし、学習環境の整備や、生徒を統率することが求められる塾においては、それをスルーすることはただの怠慢である。だから保護者の怒りを買いがちだ。
すなわち、僕は環境によって苛立たされている。それが自分なりの結論であり、だからこそどうにもできないことだと思っていて、ゆえにイライラしてしまう。
僕に変えられるのは心構えだけだ。実際、発達障害を持つ生徒を受け持つとき、指導する側に真っ先に求められることは、考え方を変えることである。
それは、「そういう言動を教師のせいにしないこと」である。障害と書くと角が立つが、当人たちも一切コントロールできないのが、いわば多動的・衝動的な言動だ。
教師の声掛け一つで、そういった行動を失くすことは絶対にできない。いくら口喧しく言われたところで、眠ければあくびが出てしまうのと同じである。
一人で抱え込まないこと。専門家であったり、そういった子たちと数多く向き合う人たちほど、このことを何度も何度も強調していた。
これ自体は別に真新しい指摘でもなんでもないのだが、読み込んでいく内に、ハッと気づくことがあった。
それは、一人で抱え込むことは、負のスパイラルの始まりになり得るということである。不幸にドミノの一枚目こそが、抱え込みではないか。
例えば、一人で抱え込むことは、猛烈な負担を教員や親に強いて、心身を追い詰める。それが閾値を超えると、子供に対する強い否定や叱責に繋がる。
そして自尊心を折られ、傷ついた子供たちは、いわゆる二次的な悪影響に晒されて、ゆくゆくは非行といった実害を伴う問題行為に走るようになる、と。
このことに気付いたのは、以下の記事を読んだことがきっかけだ。
「発達障害は生まれつきのものなので、育児や子育てが原因ではありません。
多動の特性からショッピングモールなどで走り回ったりしてしまう子どもがいますが、これを『しつけがなってない』と批判されるのは保護者にとって大変辛いこと。
精神的に余裕がなくなるため、子どもへの関わり方がますます厳しくなり、家族を追い詰めることになります。
そして僕はこれを読んで、僕自身がこのスパイラルに囚われ始めていることを、強く実感した。架空のクレーマーを想像し、その声で自分を追い詰めていた。
僕におけるドミノの一枚目は、自分に対して高すぎる、非現実的な基準を設定することを手放すことなのではないか。
それができていないから、生徒に対して非現実的な水準の振る舞いを期待し、その落差に苛立っているのではないか。
嫌われる勇気に出てくる青年のように、「・・・あぁ!!」と声を上げそうになった。真っ先に変えるべきなのは、僕自身の心の持ちようなのだ。
そして、まずは抱え込みを手放し、意識的に回転を逆転させれば、今度は環境作りにおける正のスパイラルが始まるようにも思えてくる。
庇護者たる親や教員が抱え込みを失くせられれば、気持ちや心に余裕が生まれる。それができると、好ましいとされる対応や言動を、意識的に取ることに繋がる。
冷静でシンプルな声掛けも、子供の様子の冷静な観察も、些細な言動は一貫したルールありきで許容することも、言動の弊害を仕組みで防ぐことも、全てはそこからだ。
自分に対して厳しすぎる基準を押し付けないこと。この発見に至ったことは、自分にとってとても大きな学びである。
そもそも、そういった人間性や、社会的生活におけるマナーといった、根本の教育は塾では難しい。というより、無理だ。会う回数と時間が、あまりにも限定的だからだ。
無理なものをできると思い込み、その途上を失敗や要改善とみなすことに、どこまで意味があるのか。自己啓発本の教えを真に受けすぎることは、やはり考え物だ。
「できんもんはできん」と言えばラクになる、と千原せいじ氏も著書で語っていたが、これもよく考えれば、抱え込みを手放すことを意味しており、すごく腹落ちする。
繰り返しになるが、僕にとってこのストレスを和らげるために必要なのは、自分自身が抱え込みを手放すことである。
それは公言と同義だが、愚痴にするのは勿体ない。せっかくなら、コミュニティに対して発信することで、知見や悩みのシェアをした方が有益だろう。
ロジックを重ねることで、僕が達成したい「あらゆる学びを共有する」という究極の目的にも、至極自然に繋がった。
となれば、僕という人間が抱える課題の第一歩は、自己肯定・自己受容なのではないか。そういうところまで思考が届いたが、これは話がそれ過ぎるのでまたにしよう。
終わりに。
ここまで書いたところで、ふと思い立ってタイトルを変えた。
僕自身人の親ではないし、親になるつもりもないので高尚なことは言えないが、僕のこの思索は、子どもと接する全ての方に役立つかもしれないと、そう思ったからだ。
許せていないのは子どもたちそのものではなく、自分だ。この答えに行きついたときはちょっと反発する気持ちも無きにしも非ずだったが・・冷静になると納得だ。
これは器が大きくて懐が広い人を思い起こすとよくわかる。その人達の中に、厳しさを通り越して、自分を否定し卑下する人たちは、一人もいない。逆もまた真なのだろう。
ようやく見つかったドミノの一枚目。32歳にして新たな地点に立てたことを、とりあえず喜ばしく思うと思う。
この年齢における僕の課題は、「抱え込みの放棄」だな。そう決めよう。
では今日はこの辺で。