精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「最悪の想像」こそが、期待を手放し現状に感謝できるようになるための第一歩、かも。

どうやって「期待」を手放すか。大体1年半以上に渡り、時折思い出しては考え続けたテーマだ。理由は、僕の抱えるストレスや不安の原因はほぼ、期待に起因するためだ。

 

その答えを求めて仏教の思想を学んだり、西洋哲学をかじったり、色んな人の本を読んだり、いつかそれらが繋がって、フィラメントが光る瞬間を待ち続けた。


・・・そしてその瞬間は、自分でも驚きなのだが、盆休みの連休の最終日に、家でゴロゴロしているとき、突如やってきた

 

「期待を捨てるための第一歩って、実は最悪の事態を想像することなんじゃないか?」

 

その答えを仮説を何度も咀嚼するうちに、自分の中で全てが繋がり始めて、瞬く間に腹落ちし、今は心底、そうだと納得している

 

ということで今日はその興奮が冷めやらぬうちに、僕がついに得た天啓について、記事をしたためておこう。

 

 

【期待】という120点回答をかなぐり捨てよ。

 

このことにふと気がついたのは、「最悪マネジメント」という言葉を思い出したからだ。

 

これは乱暴に言えば、現状や過去の出来事についてもっと惨憺たる状況を想像し、「それよりはマシか」と納得する思考のことだ。

 

狭義には使い方を間違っているかも知れないが、更に悪いifを思い浮かべて、解釈を変えるという意味では同じだと思う。

 

さて。この「最悪マネジメント」、もとい「最悪の事態の想像」は、実は期待という思考とは真裏になっていると、僕は考えている

 

そもそも期待とは、未来や他人が、自分にとって120点出来になることを願うものだ。

 

だが最悪の想像とは、0点の事態を思い浮かべ、それより少しでも救いのある結果になれば、それで満足するという思考である。綺麗に対極的だと思われないだろうか?

 

そしてこの思考を使いこなすと、驚くほど目先のストレスが減っていくことに気付かされる。

 

例えば、勉強が嫌いで言うことを聞かない子どもがいるとする。

 

こういう子が精神的に急成長するのを願うのは、もはや期待を通り越して滑稽だと言える。

 

しかしここで、「超尖ったヤンキー相手よりはマシか」とか、「さすがにサルを相手にするよりは、日本語が通じる分、ラクか」と思えば、どうか

 

現状にさしてカリカリすることなく、自然と、無責任な期待を捨て去れていると思えないだろうか?


目先のことや過去の話に感情が揺さぶられたときは、敢えてもっと悲惨なifを考えてみること。それによって、動揺を鎮め、冷静に現状を見つめ直す。

 

最悪の想像とは、瞑想にも匹敵する、ストレスフリーな思考の第一歩なのかもしれない。

 

もちろん、応用は更に可能で、さっきも8月のシフトを組んでいて絶望したが、僕はどうやら次の休みが9月になりそうだ。

 

しかしここでも、四十連勤の果てに精神を病んだ人のブログを読むなどすれば、視野狭窄のバイアスを解除できる

 

「さすがにここまではひどくねーわ」という安堵は、思った以上に大事なのだ。落ち込んだときは、もっと悲惨な状況に陥った話を読むこともまた効果的だ。

 

こんな風に、最悪の想像は、現時点での自分の中に知識や経験が無くても、あとからいくらでも材料を仕入れられるというところにも、大きな利点がある。

 

おそろしいほど即効性のあるメンタルハックだ。もっとこれの練度を高めて、さらに自在に使いこなせるようになりたいところである。

 

最悪の想像の極地こそ、【慈愛】なのではないか?

 

ここから先は、自分でもまだまだ解像度が低い仮説になるのだが、せっかく閃いたのでそのまま言葉にしておくこととする。

 

最悪の事態を考えて、考えて、考えて、それよりマシならOKという考え方を極めた先に、僕は【慈愛】があるように予感している

 

アドラー心理学の言い方をすれば、「在ることに感謝する」というものだ。究極、どんな悲惨な事件や事故に巻き込まれても、生きていれば、死んでるよりマシなのだ。

 

それを思えば、日本に暮らしているだけマシだと思える。頭のオカシイヤツに絡まれても、銃殺や刺殺されるリスクは、少なくともメキシコよりはとても低いはずだ。

 

こんな風に考えを広げていくと、「つまり俺は幸せじゃん」というところに、自然と着地するように思えてならない。

 

大河の一滴」にも書かれていたが、あの釈迦でさえ、ネガティブ思考から思索を始めたという。ならば、悟りの本質とは、まずは最悪のケースを思うことではないか。

 

お金持ちになって好き放題散財する自分に期待するとき、現状の自分はただの失敗作になってしまう。

 

しかし、「別にバイトで日銭を稼いでも、割と普通に暮らせるよね」と気付いて納得してしまえば、幸せに必要な投資額はグッと下がる。

 

最悪なケースを考えたり学んだり知ったりして、それを現状の自分にモノサシとして当てがえば、色々な垢が取れた等身大の姿が目の前に現れると思う。

 

生徒が話を聞かない?そうはいっても、50分で1問も解かず、ひたすら大声で走り回って暴れ散らかすヤバいヤツよりは、比べるまでもなくマシじゃねーか、と。

 

仮にそれでクレームが来ても、暴力が許される国のそれよりマシじゃねーか、と。仮に殴られれば、僕は被害者として圧倒的有利になれるから、別に悪いことじゃない

 

ナイフで切られたり銃で撃たれたりすることが無いだけラッキー。というか40代50代になったおっちゃんで、動物的に僕より強い人は、身近に何割くらい存在するんだろう。

 

近くに暴力団事務所があるわけじゃないし、校舎にいる間ずっとミカジメに怯える必要も全然ない。僕の現状はどの観点から見ても、最悪の事態よりマシであった。

 

そう思えば、現状の全てが肯定できそうな気がしてきた。最悪の状況は、巡り巡って、つまり最高を教えてくれるのではないか。

 

どんな形であれ、今の自分を肯定できれば、いずれ他者を慈しむ余裕ができてくる。まさに【慈愛】だ。

 

「たらればじゃなく、今すぐ幸せになるんだよ」という斎藤一人氏の教えが、また一つ深く理解できたかもしれない。

 

強者は無条件な自己暗示で幸福感を覚えられるし、現状に満足だってできる。だがメンタル弱者たる僕は、そのルートではなかったということなのだろう。

 

最悪の状況を浮かべ、それよりはマシだと思うこと。その繰り返しの果て、僕はどこまで行けるだろうか。

 

では今日はこの辺で。