「プラス思考」という考え方がある。現状の物事をとことんポジティブに解釈し、未来は今より好転すると信じて疑わない、そんな感じだろうか。
「諦めるな!絶対できる!」といった言葉がそのテンプレだろう。この思考について、「ナナメの夕暮れ」のフレーズを借りるなら、強者の論理だと、僕も思う。
バスケでいうと、「もっと点を取るにはダンクを磨くとイイよ!」というアドバイスを、身体能力に乏しい選手に言うのと似ている。
そもそもできない人にそれを伝えてなんになるんだ、と。だが強者に言わせれば、「なんでできないんだ?」という話になる。お互いが共有する経験や言語、能力が無い。
それと同じで「プラス思考」は、そもそもネガティブな遺伝子を持たない人に向けた、僕には関係のない、むしろ毒になり得る思考だと、危険視していたくらいである。
・・・だが、最近手のひら返しのようで気が引けるが、「プラス思考って大事だな」と、その考えを改めている。ただしその解釈は、無責任な楽観とはまるで違う。
今日は僕と同じ、考え事大好き人間に向けた、プラス思考の正しい解釈について、僕なりの考え方をまとめてみる。
「楽観はしない。ましてや悲観もしない。」
楽観も悲観も、よく考えれば両方、ある大事なことを完全に見落としていると思う。それは、現状だ。軽く考えるのも、重く考えるのも、あまりにも添加物が多すぎる。
例えば、目の前に難しそうな数学の文章題があるとする。楽観すれば、「俺ならできる!」と自分を鼓舞することになるし、悲観すれば、「無理・・」と思うだけになる。
ただこの場合、真っ先に手を付けるべきことは、情報を拾って式を立てて、さっさと計算を始めることではないだろうか。
そこに余計なことを考えている場合ではないのである。つまり楽観も悲観も、最適手を選ぶという点に関しては、すごく邪魔という話なのだ。
ここで、プラス思考についての話に戻る。この思考が必要とされる場面は得てして、物事を悲観的に考えて、一歩目が踏み出せないという状況ではないだろうか。
だから皆、熱血な根性論をベースに、無理矢理ハッピーな未来を浮かべて、とりあえず感情を処理しようとするのではないかと思う。その気持ちは理解できなくもない。
ただやはり、大事なのは自分が目先のことを過度に悲観し、無駄に恐れて、極度に不安視していることをきちんと認識することではないか。
これを踏まえても、プラス思考は本来、悲観を平常心に戻すという意味で用いられているように、僕は思う。
何も無理矢理、能天気な思考にオセロの如くひっくり返せといっているのではないのである。(ちなみにそれの有益性については、そこそこ多くの研究で否定されている)
これに似た話は、「決断力」や「運を支配する」でも書かれている。楽観も悲観もせず、平常心で現実を見つめ、目の前の出来事に不必要な意味づけをしない。
例えば今なら、「夏は暑い」。それだけなのである。「嫌な気持ちになる」「不快だな」「明日もこんななのかな」とは思わない。そこから先は、妄想だ。
こんな風に、自分が悲観、特にありもしない妄想に囚われていることをキャッチして、それを平常心に引き戻すこと。マイナスの地点からプラスして、ゼロに戻すこと。
これが僕らポジティブ苦手人間にとって一番丁度いい落としどころなんじゃないかなと、そんなことを考えている。
確かに感情的の対義語である理性的な人達は、自分の心の声ではなく、目の前の現実だけをドライに見ている気がする。
人は普通、感情的に対象へ反応する。しかしそれをせず、淡々と対処する人たちを、僕らは「飄々としている」とも感じるが、これは辞書で引いたら面白かった。
1 風の吹くさまや、その音を表す語。
「風に揉まれる煙の如く—と舞いながら」〈谷崎・異端者の悲しみ〉
3 足元がふらついているさま。また、目的もなくふらふらと行くさま。
飄々としている人たちは平常心に引き戻すのが異常に速く、それを維持する力にも優れているのだが、それは世間一般からは、ズレた感覚。そう思うとすごく納得する。
僕は「ポジティブだね」と言われるより、「飄々としてるね」と言われる方が、なんか嬉しく感じる。自分の思考のゴールは、そっちにあるのかもしれない。
最後はちょっと話が反れたけど、無理して思考をポジティブ全振りにする必要は全くないと、改めて念押しし、この記事を終わりたいと思う。
では今日はこの辺で。