言ってはいけないことというのは、意外と非常に多い。そしてその地雷の位置と数は、文字通り千差万別であり、考えるだけ頭も痛くなる。
何でこんなことを書いたか。実は最近、ちょっと変わった背景を持つ生徒の問い合わせが連続しているからである。
詳しくは言えないが、学校を退学したり、長い間そもそも通えてなかったり、あるいはメンタル的な意味で病名を貰っていたり・・・。
これらの子たちはやはり繊細であるのには違いないが、その子たちにとって良くも悪くも刺さる言葉を使わなければ、割と普通に接することができるとも感じている。
フグだって猛毒の部分を熟知して避けておけば、非常に美味な魚として賞味できるのと似ている。だから、心構えさえしっかりしておけば、別に恐れる必要はないのだ。
今日はそんな、言ってはいけないことを言わないために必要な心構えについて、私見のまとめを書いておく。
言ってはいけないこと≒悪手。
この辺のことを考える際に活きてくるのは、将棋を始めとする、思考ゲームで勝つための考え方である。
麻雀も将棋も門外漢の僕だが、その考え方自体はすごく好きだし、腹落ちもすると思う。特にそう感じるのは、「勝つというより、負けない」というものだ。
大敗を喫しないような手を堅実に打ち続け、勝機が見えるまで粘り、それが見えて始めて攻めに転じる。すごく弱腰に見えなくも無いが、これがつまり負けない手なのだ。
羽生善治氏も著書で書いていたが、「悪手を指さなくなるだけで、アマの有段者になっている」ほどなのだ。
つまり、僕らはまず、言ってはいけないことは何かを知っておくことが大切なのだ。そしてそれは、できれば具体を伴った抽象論の方がベター。
乱暴に言うが、大抵の人は大雑把に集団として括られたうえで、さらに適当なイメージを決めつけられると、すごくイラッとする。なんだコイツと、神経を疑う。
例えば僕は広島出身なのだが、「広島県民ってなんにでもソースかけて食うイメージ」と言われたら、少なくとも愉快な気持ちはしない。確かによく給食には出てたけど。
となれば、それは多分、大体どの人についても同じだと推測できる。となれば、基本、”決めつけ”って良くないよねということが理解できる。
こんな風に、言ってはいけないことには、ある程度の法則性が存在するものだ。その法則を自分なりに学び、悪手を打たないよう慎重になれば、それでOKなのである。
悪手を打たないことは逃げではない。
悪手を打たないとだけ書けば、否定的なニュアンスが乗っかるためか、それはただ逃げているだけの様に思えるという人もいる。実はそれは、考え方の妙に過ぎない。
悪手が分かっていれば、地雷がわかってるからこそ、逆にガンガン攻められるのだ。言ってはいけないことは何も、コミュニケーションしないという意味ではない。
マインスイーパでも、どこに地雷があるかわかれば、それ以外はバコバコ押せるのに似ている。悪手を知ることは自分を守るためというより、ある意味攻めのためなのだ。
地雷を踏んで痛い目に遭ってこそ学びになるという人もいる。それについては、同意できる部分が無いわけでもない。
だが、知るだけで避けられる地雷もまた非常に多いのだから、それを学ばないままに挑むのもまた滑稽だよねと思わされてしまう。
円滑な人間関係を構築するには、言ってはいけないこととやってはならないことを避ければ、とりあえず及第点は取れるわけで。
まずはその水準を目指すことが大事なのではないかと、どうしても思う。他者理解は難しいが、ある程度の傾向を、知識を持つのは不可能ではないと思う。
では今日はこの辺で。