不安が無ければいいのにと、高校生の頃から思ってきた。取り越し苦労をするからメール一つ送り辛いし、誰かとコミュニケーションを取るのにだって呻吟する。
リスクばかり頭に浮かぶから第一歩が出ないし、勇気を奮い立たせて行動に繋げても、選ばなかったIFのことが頭をよぎる。
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仮にこれら全てが無かったら、僕はどうなるんだろう。想像してみて、ふと気が付いた。僕は周囲と他人に騙され続けて、そのことにさえ無知の人生を送るのではないか。
常に懐刀を携えるというわけではないが、あまりにも他人の顔色に無関心すぎるのもそれはそれでリスキーだ。僕の生存自体が危ぶまれるのではないか。
不安とは、種の存続に必要だからこそ、脳の奥底に残されてきた感情である。随分と壮大な話だが、遠い遠いご先祖さま受け継いできた、一つの大きなギフトのようだ。
その不安を一層紐解き、言語化する旅において、人類はどの辺に居るのだろうか。この本を読みながら、そのことに思いを馳せてみたいと感じている。
では今週も、ざざっと読んでいくことにしよう。
- 4月29日(月) 「平等だ」
- 4月30日(火) 悪魔のモデル。
- 5月1日(水) フォビアの呪い。
- 5月2日(木) フォビアの不思議。
- 5月3日(金) 本能的恐怖と、どう向き合うか。
- 5月4日(土) なぜ休みを「オフ」と呼ぶのか?
- 5月5日(日) 脅威と反応のダークサイド。
4月29日(月) 「平等だ」
ホームレスと高級マンション住まいの人は、生活の質や日々の暮らしの中における驚異について、雲泥の差がついている。これは
だが、トラウマになる出来事に遭遇するリスクは確かに後者の方が低いものの、そのインパクトは不思議と平等なものに聞こえる。
通りで寝泊まりしている際に襲撃されれば、それはもちろんその人の心に深い傷を負わせる。
だが高級マンションが事故や天災で崩れることがあれば、生存者の心にこれまた消えない傷を負わせる。
積み上げたものがあってもなくても、死神は突然鎌を振るう。これをどう受け止めるかで、生きやすさがかなり変わると感じている。
4月30日(火) 悪魔のモデル。
フィクション作品を見ていると、理性で制御できないもう一人の人格を持つ主人公や適役を散見する。
大抵その人格は凶暴で、力をひたすらにぶつける存在で、何かしらの感情がぶっちぎっているといった特徴があると感じる。これは、すごく何かに似ている。
何だろうとずっと思っていたが、これはつまり、感情に完全にジャックされた人そのものである。いわゆるデビル的な人格のモデルは、各人が持つ感情なのだろう。
プルチックの感情の輪を改めて見ながら、最も内側にある強い感情を並べてみる。恍惚、敬愛、恐怖、驚嘆、悲嘆、強い嫌悪、激怒、警戒。
これらを尖らせていくと、いわゆるエンタメ作品における悪魔のキャラ付けそのものとなる。そしてそれらは、ほぼ例外なく、僕らの内にだって居る。
もしかしたら天使より悪魔の方が、僕らにとっては身近な存在なのかもしれない。本当にそう思う。
5月1日(水) フォビアの呪い。
「phobia」という英単語がある。聞いたことはある程度の言葉だが、これを英英辞書で引くと、こう紹介されている。
a strong unreasonable fear of something
(何かに対する強くて非合理的な恐怖)
ゴキブリをみたとき、集合体をみたとき、言葉にできない強い恐怖を覚える人がいる。あまりにも強い感情ゆえ、言語化を拒んでいるような印象を覚える。
フォビアは面白いほど千差万別で、人によっては芝刈り機に強い恐怖を覚えることもあるそうだ。
逆に、クモを平気で手に乗せられるように、一般的なフォビアを持たない人だっている。これを脳の不思議で片づけてもいいのだが、それにしても面白い話だと思う。
5月2日(木) フォビアの不思議。
開放的なスペースに恐怖感(≒phobia)を覚える人がいるという。僕自身も、恐怖とまでは言わないが、あまりにもだだっ広いと、確かに落ち着かない感じを抱く。
これは不条理だろうか。実をいうと、生存戦略という観点から考えれば、むしろ合理的だ。隠れる場所がないというのはつまり、捕食者に捕捉されやすいということだ。
そういう場では恐怖心を覚えて、とっとと逃避というアクションを取れる方が生き残れる。そうして営々と受け継がれてきた記憶が、phobiaには込められている。
僕らは生き残るためにこの本能を授かってきた。だからこれを捨てたり消したりするのではなく、制御するためにはどうするか、それを考えて訓練し続けたいと思う。
5月3日(金) 本能的恐怖と、どう向き合うか。
フォビアの千差万別具合からも窺い知れるが、人間の本能を強く呼び覚ますトリガーは本当に人によってバラバラだ。
だが結局、強い感情が想起されるという意味では同じである。本当にコントロールしようとすべきは、その感情自体なのではないかと思う。
例えば僕は、仕事の連絡が飛び交う際、多分自分が関係ないことであっても、「もしかしたら自分のせいか?」という感覚を持ち、不安になることがとても多い。
この場合、「どうすれば休日に仕事が飛び交うことに不安を覚えなくなりますか?」というのを考えるより、「不安の手放し方」を考える方が建設的だ。
フォビアを始めとする恐怖症を考える際は、大体トリガーを考えがちだが、それによって立ち上る感情をつかみ、それをスルーする方が肝要に思えてならない。
5月4日(土) なぜ休みを「オフ」と呼ぶのか?
休日等の空き時間のことをオフと呼ぶが、一体何を、あるいは何からオフにするのか、そういえばよくわからないなと感じていた。
そんなときにふと気が付いたが、脳は不安を感じると、コルチゾールといったホルモンを放出し、身体を戦闘態勢にして、外界の脅威に備えるのだという。
そのホルモンはいわばエンジンをふかしたまま車を一晩中置いておくようなものであり、当然時間が経過すれば、ガス欠で車ごと停止してしまう。
比喩表現としてぴったりだが、ストレスホルモンはこのような特徴があるそうだ。ストレスに対する反応のスイッチをオフにして、エンジンを休ませる。
僕の中で「オフ」のイメージに、より手触り感ができた瞬間であった。
5月5日(日) 脅威と反応のダークサイド。
ストレスによってホルモンが分泌されると、身体は無意識に、それに応じたモードに変化する。
例えばコルチゾールなどが分泌されると、戦闘態勢全振りとなり、逆に免疫系などの機能は抑制されるという。
それはつまり身体に炎症といった不調が起こりやすいということで、ストレスが溜まると身体に悪いことの証左として成り立つ。
問題はストレス自体じゃなく、その反応と、それが常態化したことなんだというのが、よくわかる話だと感じる。
では今週はこの辺で。