最近、なんかよくわからないが、不思議と追っている芸人がいる。ぐんぴぃだ。もはやミームと化した例の動画で有名な人である。(貼らないけど)
お世辞にもイケメン枠ではない彼。むしろ見た目だけなら、学校内ヒエラルキーの下位に居ると思われるのが自然なくらいである。(失礼な話なんだけど)
ぐんぴぃ「大病院占拠」で櫻井翔と共演「住む世界違う」もLINEで“つながる”/芸能/デイリースポーツ online
ところがどっこい、配信を聞いていると、その印象がガラリと変わる。いい意味で裏切られる。不思議と、魅力的な人物に思えてくるのだ。
例えば普通によく通る声をしているし、返しは上手いし、頭の回転も速い。ちなみに青山学院出身なので、学力も高い。
一言で言えば、多分コミュ力が高い人なのだ。そしてその長所だけで、見た目によるあーだこーだは、不思議とどうでもよくなっていく。
だから彼について少しリサーチしてみた。そのコミュ力はどこから来るのか。天性と言われればそれまでだが、少しでも再現可能な秘密があるなら、ぜひ知りたい。
すると、割と衝撃というか、「あっ・・・やっぱり?」ということを知った。それはコミュ力が高い人がほぼ例外なく抱えている何か。
もとい、「闇」である。ネアカを育てるのは、つまり闇なのかもしれない。今日はそんな仮説について、思うことをつらつらと書いていく。
鬼気迫る「明るさ」。
何がどうして「ぐんぴぃ」なのか。その理由は、本人がnoteに書いていたので、引用して紹介する。(余談だが、文体から頭の良さが滲み出ていてズルい!)
ぐんぴぃ、はピングーの業界用語読みです。
これで納得しない人には実は「軍隊を否定すると書いて軍否(ぐんぴぃ)と読むんです」と左翼嘘をついています。
キッカケは辛いことが多すぎて「これはおれの人生じゃない。“ぐんぴぃ”が勝手にやってること」と認識をねじ曲げるためです。
具体的には1年半通ったマセキ芸能社のオーディションに落ちて、所属できないことが分かった時に、やけくそで改名しました。
―そう、根底にあるのはやはり、「闇」のようなのだ。明るさを感じながらも、どこか器の大きさを感じさせる人には、すべからく「闇」が内包されている。
お笑い芸人になって、お茶の間に底抜けな笑いを届ける人たちは、自分が経験した凄惨な過去さえ、笑いに変えてしまう。それはもはや、真似のできない職人芸なのだ。
クラスの人気者としてチヤホヤされ続けた美女イケメンには出せない、人間として圧倒的な深み。それを醸成するのは闇しかないのかもと、少し考えさせられた。
それにしても、なぜ「闇」が、本当に明るく、そして強い人をつくるのだろう。僕も一応世間的に見れば闇を知る人間らしいのだが、そのヒントは全然つかめない。
ただ、「あまりにも辛いから、別の人格を作り演じる」という認識でいる人は、結構多い。例えば宮迫博之氏も、動画で似たことを語っていた気がする。
俯瞰で自分の立ち振る舞いを眺められると、その場その場の最適解が見えてくる。こう振ればこう反応があり、ならばオチはこうなる、という風に。
場が自分に合わせるのではなく、自分が場に合わせること。その技を身に着けるには一度自己を徹底的に否定されるという時期や経験がマストなのかもしれない。
仏教においては、永久不変な自己など無いと説かれる。自我に固執するとき、苦しみが生まれる、と。
闇を経験すると、良くも悪くも、己というなにかに関する価値が大きく崩れる。端的に言えば、そんなものどうでもよくなるのだ。
結果として自我が崩れ去ると、イヤでも認識を改めるための自問自答が始まる。それをエンタメに昇華できた人たちの明るさには、否が応でも深みが宿る。そう思う。
逆に言えば、見た目や家柄、運に恵まれなかった人たち程、闇をしっかり見据えて、そこから努力しなければならないのだと、身が引き締まる思いがした。
中途半端にナァナァで生きてこられた僕ほど、本当の闇も光も知らないのだと意識して、自分を徹底的に追い込むくらいの気概が要るのではないか。
そうしないと、「深み」というものは滲み出てこないのではないか。ぐんぴぃのショート動画で、下衆なテーマにバカ笑いする彼を見ていると、そう思わされてしまう。
では今日はこの辺で。