精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕は鈍感力が多分ある方なんだけど、それを発動するのが驚くほどヘタクソである。

最近、タイトルが気になってこんな本を読んでいる。

著者が壮絶ないじめに長期間遭っていたことは、配信や別の著書でも語られていることではあるが、今は完全にいじめていた側とは別世界の住人にまで上り詰めている。

 

その比喩として挙げられるのは、こういう話だ。聞けば聞くほど、スカっとする。尚、ここで言う彼らは、「イジメていた側」である。

 

彼らが一般的な仕事に就いているとして、彼らが一生かかって稼ぐ額と同じ額のお金を、僕は3か月~半年のスパンで税金として納めています

 

これを逆算すれば年収が推測できてしまうのだが、それほど逆境で塾生される力は強いという話なんだと思う。

 

―ところで、筆者が序盤の方で、「いじめを通じて学べること」について、興味深いことを書いていた。

 

それは、「周囲の同級生や先生からも無視されて、全てから拒絶されても、個として立っていれば全く問題ないという事実」という感じのものだ。

 

いわば、拒否で人は死なないということ。それを身に染みて学んでおけば、他の大多数が学びようもないほどの人生訓を得たも同然という話があった。

 

・・・というところまで読んで、ふと気づいた。僕は人から面倒なことをされるってのをすごく嫌がる(クレーム然り)のだが、拒否された経験、ちゃんと持ってるじゃん、と。

 

例えるならば、その上位互換モンスターを既に倒しているのを忘れて、下位互換のザコ的にビビっているのというアホな話に似ている。

 

僕は既に、露骨にいじめられた経験があるわけじゃないが、拒否を気にしない、いわば鈍感力が多分ある方なのだ。だが、それを発動するのが、驚くほどヘタクソ。

 

勿体ない。もっとこれを磨いて、僕は狙って鈍感になりたいんだ。不必要な敏感さは、もういいからっ。

 

ということで今日は、ガッツリとした内省の記録である。

 

 

あちこちから爪弾きされたけど、僕は生きているというね。


僕が最初に爪弾きされた経験は、中学の頃に遡る。練習ばっかりハードで、ろくにバットもグローブも使えない野球部の日々が嫌すぎて、一時期サボっていたのだ。

 

そうなると当然、同じ部活の先輩からも同級生からも総スカンを食らう。挨拶しても露骨に無視なんてのはザラだったが、不思議とそのときは、一ミリもイラつかなかった

 

理由を今さら言語化するのは難しいが、「まぁサボってるやつへの対応ってそんなものだよね」と、何一つ期待してないし、全てを諦めて受け入れていたからだろう、と。

 

ちなみにその後は色々あって1年生の夏から復帰し、その後は引退までやりきったので、それはまぁ、良いだろう。

 

次に「おめー、面倒なことにやってたよなw」と友人から言われるまで気付かなかったのは、僕の高校の荒れっぷりだ。

 

ちゃんと受験が存在する公立高校のはずなのに、クローズみたいなヤンキーが10人くらい学年に存在し、うち一人はボクシング経験もあるガチの不良であった。

 

廊下でヘンな遊びをしてガンを飛ばしまくり、「俺らは強いんだぞ!」的なオーラを出そうと頑張っている奴らが、いたっちゃいた。

 

・・・だが、ここだけ切り取ったらただのイキった掲示板の住人なのだが、見た目がめちゃ細身だったので、口だけ威勢が良くてもナァ・・という印象しか持ってなかった

 

それよりも、街宣車でバンバン走り回るタイプとか、広島の繁華街にいるタイプとか、そもそも話が全く通じない、何かヤクやってんじゃないかという人の方が恐ろしい

 

だからこそ、同級生が大変だったねと振り返る度、同意しきれない自分が居る。関係ないグループ同士、こちらが何を気にする必要があんの、と。

 

例えば山を登るとき、落ち葉をめくれば大量のゴキブリやミミズが潜んでいるのだが、こちらからその世界を覗こうとしなければ、お互い何も知らないまま過ごせるのだ。

 

多分、そんな風に考えていたと思う。

 

他にも日雇いバイトで、手伝おうとすればキレて、かといって見ててもキレるという、監督として1㎜の才能も無いオッサンに当たって面倒な思いをしたこともあった

 

―しかし今は、「あのオッサンに比べれば日本語が伝わるだけマシか」と、大体のことがどうでもよくなっている。

 

正直こないだのクレーム案件だって、「説得される気もなければ日本語も通じない何かが、こちらに一方的に敵意を向けてきただけ」という図式である。

 

なら、スズメバチが飛んでくるのと構図は同じだ。そして毒針で実際に刺してこない分、ハチの方がめんどくさい。

 

いわば、ハチより無力な何かが僕に何かを言っている。言葉を喋っているように見えるけど、ただの威嚇で、つまり犬が吠えているのと同じだとすれば?

 

犬の吠える声に「ワン」と音を当てているのは人間だ。定義して初めて、それは言葉として機能する。しかしコミュニケーションする気が無い人間のそれは、音として処理

 

そう思うと、忘れていた鈍感力の源を、少しずつ思い出せてきた気がする。僕は一体、何を周りに期待しているっていうんだ。至極バカバカしい話だ。

 

期待や理想は、矛盾しているようだが、鈍感力を鈍らせる。この遠因は恐らく、僕が小~高の頃より遥かに、優れた人が身近になったことが大きいだろうな、と。

 

世界には優れた人が本当はいっぱいいる。そのことを知っているからこそ、その落差で目の前のアホが浮き彫りになり、嫌でも視界に入ってくるのだ。

 

逆だ。アホが多数派であり、珍しいからこそ人を惹きつけられるのが、優れた人たちの正体なのだ。世界はアホでできている、というくらいに諦めるくらいでいいんじゃね?

 

理想や期待はクソ食らえ。全てを投げ捨てて、期待値を徹底的に、なんなら地面の下にまで落としてしまうこと。それが鈍感力だと納得し、メガネをかけかえる所存である。

 

ということで今日はこの辺で。

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村