精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

応援”してみて”わかった、良いプロジェクトと残念なプロジェクト。

今の時代においては、何が重視されているのか。

 

その端緒が知りたくて、ひたすら本を読み、コミュニティに登録し、講演の動画を何度も観てきた。

その結果、「どのように応援を設計するか」といった応援シロ、共感、ストーリーといった、感情に根差す部分の重要性が高まっていることが傾向だと納得している。


とはいえ、そのことは頭では理解できても、それを腑に落とすところまでは、一方的に情報を聞くだけでは困難だと感じてもいたわけで。

 

そういうわけでここ3年くらい私財を投じて、Makuakeから、部活のカンパまで、無理のない範囲で支援を行い、それによって自分の感情がどうなるかを観察し続けている。

 

合計で13万円くらい使用しただろうか。累計なので別に破産するほどの額ではないが、振り返ってみれば結構突っ込んだなと感じている。

 

すると、「支援してよかったな」と思えるプロジェクトと「なんか勿体ないな」と思えるプロジェクトの2つに、割と綺麗にわかれることに気が付いた

 

今日はそれを更に腹落ちさせるべく、こうして記事にしていく次第である。

 

 

「惜しい」プロジェクトの共通点。

 

まず初めに、「惜しいな」と思ったプロジェクトの共通点を書いてみる。

 

ただ、これこそが結構大切で、それがあればいいプロジェクトだし、無ければ勿体ないプロジェクトに変わり得る、ある種諸刃の剣だと感じている。

 

勿体ないプロジェクトに無いもの。それは、「報告」だ。

 

特に、僕が支援した額が何に使われて、携わった人たちがどんな顔になっているかの報告が無いそれは、非常に勿体なさを感じた次第である。

 

報告なきプロジェクトは、言葉を選ばずに言うと、体よくお金だけ持っていかれたも同然である。

 

実は過去に支援した中で、これに該当するプロジェクトから第2弾・第3弾の案内が来ているのだが、そのままスルーさせていただいている

 

逆に言えば、もしこれを忘れてしまうと、支援してくれた人の心が秒で離れる、いわば最悪の一手。ここまで設計できているものは希少で、僕もまた、自信がない。

 

だが、カネだけ貰って無視をするのは、構図だけならカツアゲに等しい。慎重に構えなければならない部分だと言える。


「支援してよかった」プロジェクトの共通点。

 

支援してよかったプロジェクトは、綺麗にその反対で、きちんと報告が届いたものがそれに当たる。途中経過が添えられているとなおのこと、だ

 

例えば某私立高校の遠征費の支援をした際は、家に直で手紙が届き、いい意味で驚いた。

 

見返りを求めないと高尚な人は言うのだが、世の中聖人の方が少ないし、やはりなんだかんだで、形に残るものを通じて感謝されると、人は嬉しい

 

そして人から長年支援されるプロジェクトは、よくよく分析してみると、報告が本当に徹底している

 

UNICEFに送った募金は何に使われているのか?―途上国の支援である。クラウドファンディングの支援は何に使われているのか?―演者のギャラと製作費である。

 

こんな風に、用途が明確で可視化されているのみならず、その知名度までもが高いプロジェクトは、本当に理想形だと言える。

 

また、例えば孤児院にランドセルを「伊達直人」名義で寄付した人は、そのことが報道されて初めて一つの物語が完結する黙して受け取ることは、いわば無礼なのだ。

 

人にお世話になった際は、それに全力で感謝し、それを活用して楽しげにしている様子や成果をきちんと発信する。こういうウェットな部分が、つまり大切。

 

お金を集めることが目的ではなく、本来の目的を達成するための手段のはずだ。それなのに目的を報告しないのは、ねぇ・・・。


繰り返しになるが、累計10数万円の投資であったものの、それ以上のリターンを得られたと思う。


勿論この皮膚感覚が薄れないよう、これからも月収の最大1割くらいは、毎月誰かへの支援に回していこうと考えている。

 

そして時には、僕が助けを求めてみて、蓄積した経験や仮説を検証したい。それもまた展望である。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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