生き物系YouTuberの動画をよく観る。僕自身も昔から生き物が大好きなので、純粋に好奇心を満たしてくれる時間として、すごく重宝している。
そんな折、彼らの共通点に、ふと気づくことがあった。基本的に、ものすごく大らかなのだ。動画内の顔かもしれないが、彼らはストレスを抱えている様子を見せない。
そして大らかである理由は、実を言うと仮説を一つ閃いている。そのことは、彼ら自身が生き物をこよなく愛していることと、密接にリンクしている。
しかし、その理屈そのものの響き自体は、ちょっとサイコっちゃサイコである。今日はそんなお話を書いていこう。
生き物と接しているとよ~くわかること。
僕も生き物を飼っていた時期がある。既に虹の橋を渡って久しいが、実家で犬を15年くらいペットとして迎えていたのだ。
その際、確かにかわいらしさとか、愛くるしさとか、そういう精神的な充足をくれる時間の方が多かったが、思い通りにならない時間もまた、少なくはなかった。
カーペットの側で小便をする。玄関にウンコを落とす。雷の音に驚いて家じゅうの壁を引っ掻いて回る、等々。振り返れば喜劇だが、当時はすごく怒りが込み上げたものだ。
というか、生き物がこちらの感情を汲み取って、それに合わせて行動をしてくれることなど、絶対にない。そのことが、学ぼうとしなくても、勝手に学べたと思う。
そして生き物が好きで、きちんと世話をしようという覚悟がある人は、思い通りにならないことを前提に、観察し、勉強し、人間の側から合わせに行っている。
それでいて、一定のラインから先は、諦めている。予想外の行動をしても、自分にも生態にも悪影響が出ないシステムの設計に、全力で頭を使っている印象だ。
例えば人に懐いていないイグアナは、尻尾で思い切り攻撃をしてくる。(テールウィップというらしい)
それを、「なんでこのイグアナは言うこと聞かないんだ!」と憤るのは二流も良いところであり、トングで餌をあげるなどすれば、その辺は無問題だ。
こんな風に、日頃から人間以外の生き物と接していると、”本来の”生き物の性質や気性、振る舞いや心構えが、否応なしに見えてくる。
それが日常となっている人にとっては、「あたおかな人」もつまり「動物」と同じなので、ストレスを感じる理由にならない、ということじゃないかと納得している。
「あ、人間じゃなくて、動物なんすね。しかも一切、かわいくもないタイプの。」
これを人間社会に応用するならば、ヤベェ人に遭遇した際、人間とカテゴライズするのを止めてみるのが一助となりそうだ。
「あ、人間じゃなくて、動物なんすね」と、心の中で勝手に見下す。人間の音声で言葉らしきものを発しているが、ハチの威嚇する羽音と同じで、言葉としての意味はない。
それでいて、単に動物なだけならまだしも、ふわもこなアニマルと違って全くかわいくもないと来れば、相手をする理由も義理も1つもない。そう割り切れたら、強い。
例えば蚊にまとわりつかれたり、セミにおしっこを引っ掛けられたり、カマキリに威嚇されたりしても、僕らはそのことを数分覚えていたら良い方だ。
動物からの失礼な攻撃は、実際はこれくらい軽やかに消えていく類のもの。人間からのそれがそうでないのは、その人を人間だとカテゴライズすることが原因だとすれば?
近所でがなり立てるおばさんはセミと同じ、夜遅くにギターを演奏する大学生はコオロギに同じ。そんな風にぱっぱと仕分けていくと、アホくささが募ってくる。
言葉での解決は不可能だと解れば、システムやグッズなどで対策するのが正解となる。耳栓を常備してから、僕のQOLが爆上がりしたように。
生き物系YouTuberたちの器の大きさを見る度、フラットな目線とはつまり動物として広く考えることを指すのではと、そう思う。つくづく、そう思う。
では今日はこの辺で。