精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕がこの塾講師という仕事で、唯一無二の大嫌いな作業を白状する。

今日は僕がこの仕事で唯一と言っていいほど、めちゃくちゃ嫌いなものについて話してみる。

 

「何だそれ」という話だとは思うのだが、僕が今やってる仕事の内、全く好きにもなれず、慣れることもないものは、ビラ配りだ。

 

よく校門の前に立って、下校途中の生徒にチラシを配るやつ。あれがめちゃくちゃ嫌いで、もう嫌いを通り越して恐怖さえ感じるぐらい、猛烈にダメなのだ。

 

僕にとって、下校中の生徒に手渡しでビラを配るのは、クモが嫌いで仕方がない人が、虫取り網を使わずジョロウグモを10匹集めてこいと命じられるのに等しい

 

あるいは集合体恐怖症の人が、胞子のうがビッシリついたイヌワラビを素手で30本取ってこいと命じられるのに等しい。僕にとってのビラ配りは、もはや恐怖症に近い。

 

今日はそんな情けない話を基に、ビラ配りの何がそんなにイヤなのかを、自分のために言語化しておく。

 

 

なにが、そんなに、イヤなのか?

 

凄まじく嫌いなビラ配りだが、僕はこれが集客や広報において非常に大事だということも、頭では分かっている。だからタチが悪い。二律背反、悩みが尽きないのだ。

 

そして、こういうのはいわゆるドブ板営業だ。大変で、地味で、時に傷つくこの仕事を避ける人間はリーダー失格だという風潮が、主にビジネス書から伝わってくる。

 

そうは言っても、例えば生き物系YouTuberの人だって、全ての生き物が等しく好きっていう人もいないように、行き過ぎればとてつもない暴論に繋がると思う。

 

動物好きを自称するなら、例えば家に出るゴキブリも愛情もって接せよ、というのは頭がおかしい論理ではなかろうか。僕にとってはビラ配りがそれだ。

 

では、僕はどれくらいそれが嫌いなのか。まず、どう足掻いても断り切れずにビラ配りに行くことが予定された日は、出社前からものすごく憂鬱になる。

 

そして配ってる途中もとんでもなく嫌な気持ちがずっと続く。何をどう自分に言い聞かせても、陰鬱な気分は据え置きだ。もはや無間地獄と言っていい。

 

ビラ配りから戻ってきても、すごく嫌な気持ちはその日1日持続する。その日の生産性はガタ落ちで、帰って酒でも仰がないとやっていられなくなる。

 

・・・何がそんなに嫌で、何がそんなに怖いのか。何度も自問自答したが、自分でもよくわからない。とにかく、嫌で嫌で仕方がない時間だ。

 

何がそんなにイヤなのか。まだ言語化すら追い付いていないほど、僕の潜在意識の奥深くに、その確固たる嫌悪感が根差しているのだけは間違いない。

 

嫌いな食べ物も毎日食っていれば好きになる理論を否定する。

 

この大嫌いさも、なんとかすれば、いずれ克服できるのだろうか。実を言うと、僕はその可能性自体をとっくに諦めている。それは”これまで”を考えればよくわかる

 

皆様もそうだろうけど、僕はこれまでの32年間の中で、猛烈に嫌いなことが平気になったことは、全く無い。本当にない。例えば嫌いな食べ物は昔からずっと嫌いなままだ。

 

克服できたものも少しはあるが、それらは徹底的に嫌いというわけではなく、できれば接したくない程度の嫌悪感だった、という特徴がある。

 

僕はクモが苦手なのだが、今はハエトリグモ程度なら手に載せられる。トマトも嫌いなのだが、嫌な顔をしながらでいいなら、別に食える。

 

しかし、徹底して大嫌いだったチーズは今でも食えない。猛烈に嘔気が込み上げてきて、身体が本能として摂取を拒む。それくらいダメだ。

 

仮に今の仕事のルーティンに、「毎日ビラ配り100枚!」というのが必須になったら、僕はこの仕事を辞めると思う。それくらい強い嫌悪感は、もう消えないだろう。

 

だからこそ、ビラ配りを徹底して分析し、得られるメリットを考えて、その変わりになるものは何かっていうのをすごく考えるようになった

 

また、自分の代わりに他の人にお願いできるように、代わりにその人へ自分は何ができるかっていうことも、強く考えるようになった

 

クモが嫌いな人にクモを集めさせに行くのではなく、クモが平気か好きな人にそれを依頼できるような仕組みの方が健全だ。その人が苦手なことを、僕がすればいい。

 

もっと言えば、いわゆるドブ板営業にカテゴライズされるものは、絶対にビラ配りだけじゃないドブ板営業が器の大きさに寄与するなら、それ以外のドブ板を僕はやる。

 

そうすることで、僕の後ろめたさを、多少は浄化できるのではないかなと考えている。嫌いなことを好きになれというのは、誰も幸せにしないと思えて仕方がない。

 

終わりに:できるやつのアドバイスをぶん殴る。

 

「なんでビラ配りもできないの?」と言われると、苛立ちより、その人の視野の狭さを、少し見下すような感情を抱いてしまう。そして後で少しだけ反省する

 

できる側が、できない側の気持ちの一切を想像せずに吐き捨てる言葉は、底の浅さを露呈する行為。僕はそう強く自戒しているつもりだが、ゼロにするのはとても困難だ。

 

なんでもできることが求められる時代はまだ続いていると言えるが、なんでもできるひとから代替されていくというのは、すごく皮肉な話だと僕は思う。

 

僕はビラ配りができない。これはもう治らないし、色んなコストを考えても、治す気じはさらさらない。他の人にビラ配りしてもらうために何ができるかに頭を使おう。

 

嫌いなものがあったら、好きになったり平気になったりすることはオススメしない。ツールなりシステムなり他人なりを頼れないか、いっそ捨てられないか。

 

そこまで深く考えてナンボだと、強く思う。では今日はこの辺で。

 

 

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