ここ最近、自分で自分を追い込むような思考になっていることに、薄々気付いていた。元々がそういう気質なのだからと諦めていたが、いや、ちょっと待て、と。
流石にそれによってメンタルがめげるというか、正直鬱状態手前まで気分がゲンナリしてもいるので、せめて己のメタくらい自分に優しくありたいと、最近思い直している。
そんな観点で色んな声掛けや事例、考え方を調べていると、心をへし折る思考の共通点にして、かつ自分が思い切り嵌っている罠に気が付いた。
それは「理想」を目標にしていることである。一見美談というか、向上心の裏返しにも見えてしまうこの思考は、その実、めちゃんこコスパが悪いのではないか。
今日はそんな疑問を基に、記事を一つ書いてみる。
「理想」≒諦め説。
まずそもそもの問いを立てる。「理想」ってなんだ?ということで、「理想」という言葉を辞書で引いてみた。すると、こう書いてある。
1 人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない
なもの。そうあってほしいと思う の 。「―を高く掲げる」⇔ 。
2 理性によって考えうる最も
な 。また、 したいと願う の あるいは 。
そして、ついでに英英辞書で引くと、理想とは【ideal】と書かれており、その意味を調べると、こうあった。
the best or most suitable that something could possibly be
(意訳:物事が為りうる最高、完全な状態)
こんな風に、ほぼ似通っている。そしてこの共通する定義から、僕はある暗示を感じてしまう。それは、理想って絶対に到達できないよね、という前提だ。
「こうなれたらいいよね!まぁ無理だけど」「こういうことが起きたらいいよね!まぁあり得ないけど」そんな諦めた気持ちも、セットで僕は覚えてしまうわけで。
そう考えると、夢から覚めるような心地がする。理想とは、本当に無責任なものだとさえ思えてきた。実体のない何かに対するやり場のない怒りさえ、どこかに感じる。
そしてもう一つ気付くことがある。それは、【理想】像なんてのは僕が自分から構築したのではなく、世間から押し付けられたものであることが大半だということだ。
ただし、押し付けられるといっても、そこにはマネーロンダリングのような論理が潜んでいて、なるほど、気付くのが容易ではない。
例えば「モテるのはこんな男性だ!」というありきたりな特集があるとする。僕はもうそんな特集なんて響かない年になったが、20代の頃は結構真剣に読んだものだ。
何故かというと、その頃僕は自分に対する自信(というより肯定感)が欠如しており、その材料として、「モテる」という社会的ステータスに憧れていたからだ。
モテれば自分を肯定できる。そのためには、世間が言うモテる像を真似なければならない。なぜなら、僕はそこから遠いんだから。
という風に。自己肯定のための努力が、しれっと巧妙にすり替わっていることが、文字にするとよくわかる。
正直、自己肯定ができないヤツは、モテても自分を許すことはできない。ドミノの一枚目を間違えているとさえ感じるわけで。
自分が内発的動機に基づいて設定したモデルを追いかけることは、その途上でも意味があると思う。しかしどこか腑に落ちないまま理想を追うのは、なんか苦しい。
今振り返れば、大学受験の頃の努力は、辛かったけど充実はしていた。目指す地点は、自分が本心で設定したからだ。
だが、彼女を作ろうと藻掻いていた時期は、それ以上に辛かっただけで、本当に空っぽなだけだった。それは人から押し付けられた理想を追っていたからではないか。
こう考えていくと、またあることに気が付いた。僕は自分が目指す地点のことを、【理想】という言葉で表現していない。
それよりも、例えば目標とか、ゴールとか、最終目標という風に、少しずつ表記ブレはあれど、間違っても理想という言い方をしていないのだ。今気が付いた。
僕の無意識の部分は、ここを区別し、こっそりと忌避していたということの証左なのだろうか。そうだとすれば、その声に従うのが今一番良い選択肢だ。
―どう考えても、行き着く結論はやはり同じ。「理想」を目標にするのは、あまりにもコスパが悪すぎる。
敢えてゴールを決めず、つらつらと考えながら書いてみたが、なんか安心する答えになってほっとしている。
僕は「理想」を追わない。例えば巨匠の美術作品みたいに「すげーなー」と鑑賞するのは良いだろうけど、目の前にぶら下げるニンジンにするには、あまりにも高邁だ。
忙しい時期はまだ続く。自分で自分の首に輪をかけて、ゆっくり絞めていくような思考は意識的に断とう。改めてそう誓った。
では今日はこの辺で。