精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

折に触れて考えたい。「下手の考え休むに似たり」ではないか、と。

空き時間に何の気なく「大局観」を読み返していたとき、直感と閃きの違いに関する項をみて、ふと考えさせられることがあった。

 

直感も閃きも、「何となくこう」という風に思考が介在しない一手を指すのだが、後々検証の際に説明できるのが直感、それができないのが閃き、という感じらしい。

 

例えば数学の図形の問題を解く際に、よく補助線を用いて考える場面があるが、「例題でもこうやった」と考えて引くのは直感、とりあえず引くのが閃きだそうだ。

 

さて。その直感の項には、それを磨く方法についても書かれていた。それは、ざっくり2種類あり、まずはとにかく大量の経験値を得て、それを思考の材料にしていくこと

 

そしてもう一つは、しっかりと反省・検証を行い、取らなかった手の可能性も丁寧に分析していくこと、という風に説かれている。

 

この辺を読んで、ハッと気づいた。僕は今、いくつかのテーマについて、ろくすっぽ思考の材料を持たない癖に長考を重ねてしまっている、と。

 

これはまさに、「下手の考え休むに似たり」という状況だ。気づいた瞬間はちょっと赤面ものであったが、ならばこのことをしっかりと反省して、次を防ぐしかあるまい。

 

今日はそんなお話である。

 

 

「下手の考え休むに似たり」の語源は面白い。

 

偶然なのだが、「下手の考え休むに似たり」という言葉の語源は、将棋や囲碁での一幕にあるらしい。

 

【意味】
下手の考え休むに似たりとは、よい考えも浮かばないのに長く考え込むのは、時間の無駄だということ。考え込む相手に軽い皮肉を込めていう。

 

【注釈・由来】
囲碁や将棋で、下手な者がいくら長時間考え込んでも良い手が浮かぶことはなく、まるで何も考えずに休んでいるようなものだということから。

 

kotowaza-dictionary.jp

 

という感じだ。時間をかけてもいいアイデアが出ないときや、考えればいいアイデアが出るはずという考えを捨て去れない人は、僕含め、大体この辺にバグを抱えている

 

そう、そもそもの思考の材料が無いのだ。直感も閃きも、脳内に膨大な記憶や経験値があって初めて、それが起きる土壌が整う。

 

それらは言語化できている必要は別にない。しかし、ある程度まとまった量が必要なのだ。それを育むために大量の実践と反省が必要という指摘は、至極ごもっともだ。

 

例えば僕は今、いい広報戦略、いいチラシとは何かをずっと考えているつもりである。しかし、そもそもそういう戦略を打った絶対数があまりにも少ない

 

いいアイデアもくそもない。素人の段階で頭を使うのはナンセンスなのだ。自分がここに陥っていることに気づけていなかったとは、やはり思い出すたびに恥ずかしい。

 

ーでは、この罠に気づいたところで、それを脱するにはどうしたらいいのだろうか。実はそのヒントも、既に本から得た知識に心当たりがある。

 

それは、模倣だ。このことをTTP(徹底的にパクる)と表現する人もいるが、本質は同じだ。先行例をとにかく大量に集めて、片っ端から真似をする

 

自分の中に「おや?もしかしてこれはこういうことか?」という問いが発生するまでは、愚直に真似をして、都度検証を行うしかない。

 

逆に言えば、それが無き長考は、まさに休むに似たり。もっと端的に言えば「サボりに等しい」のである。給料泥棒ということか。本当にぞっとする。

 

勉強でもここは似ている。最初から自分のアレンジを加えることなく、丁寧に教科書例題の解き方をトレースする方が、特に数学はその上達が早いと感じている。

 

というより、最初から我を出す人の完成度は、驚くほど低い水準で止まることが多い。こちらの方が真理ではないかと思われる。

 

達人の領域に到達した人たちは必ず、一定期間の質のいい模倣と、その検証を繰り返した時期、及び現在でもその習慣があるように感じている。

 

下手の考え休むに似たり。自分がそれに陥っていないか、僕が持つスキルスロットについて、つぶさに観察を繰り返しておこうと思った。

 

では今日はこの辺で。

 

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