精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

無駄な不安を激減させる自問自答の観点。それは、「冷徹・豪快なあの人ならどう考えるだろう?」である。

僕は我ながら、物事を悲観的に捉えることが得意だ。例えば何かしらの連絡を発信する際、必ず「理不尽な顧客からのクレーム」をそこに想像してしまう。

 

例えば未納告知の連絡をすれば「銭ゲバが!」というバカなコメントが来たら面倒だと考えるし、子供を叱れば「虐待!」というアホからコメントが来ることも想像する。

 

なんというか、病気である。一度文字にすれば、そんなバカはこっちから出禁にすればいいと判断できるのに、咄嗟であったり脳内問答であったりすると、それが難しい。

 

このネガティビティ過ぎるバイアスを、どう御すか。その一助になりそうなのが、【観察力の鍛え方】に書いてあった、「自問自答を通じて観点を変えること」である。

そして僕においては、「冷徹・豪快なあの人ならどう考えるだろう?」という問いを自分に向けることが、そのバイアスを弱るために必須だという仮説に至っている。

 

今日はそんなお話である。

 

 

内なるサイコパスを”コンサルとして”呼び覚ませ。

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時折、「生まれ変わりたい」という人を見かける。それについては、ほぼ例外なく不可能であることが、長い人類の歴史や科学的実験によって、ほぼ裏打ちされている

 

しかしながら、要所要所で自分の考え方を制御するという風に限定すれば、どうやらそれは工夫次第で可能なようなのだ。

 

この辺のヒントは【私とは何か】を読んでも書いてあるのだが、僕らは固定の”じぶん”を持っているわけではなく、あくまで他者との関係性でそれを押し引きする。

逆に言えば、一時的に自分の思考を変えるためには、架空の誰かと打ち合わせをしている自分を想像し、その分人を用いればいい、と考えられるわけで。

 

色々と長くなったが、その考え方の最たる例は、頭の中に冷徹・豪快な人を召喚し、その人ならどうするかをイメージしてみることである。

 

これはフィクションの人でもいいし、自分の知り合いでもいい。とにかく感情的な反応をしない人を頭の中に呼び出して、その人と現状を打ち合わせてみるのだ。

 

例えば、他者に謎の皮肉や陰口を言われた際、感情的にキレる前に、脳内のその人と問答するのはどうか。

 

「こいつのやり口は、相手を怒らせて揚げ足を取るパターンだな。なら、失言が出てくるまで、一旦踊らされてみるのがいいだろう」

 

という風に。よく人の意見はスルーしろといわれるが、スルーの極致は自分が言われたという感覚を意識的に捨てることである。自問自答はその最もお手軽な術だ。

 

ちなみに、サイコパス性を研究した本にも、自問自答を起点として彼らの思考のいい部分を学び取ろう、という提案が書かれている。

 

そんなサイコパス達の思考と類似しているといわれるのが、熟達した仏教僧だ。彼らもまた、感情を切り離して観察する術を、座禅などを通じて修行している。

 

”切り離し”に秀でることが、ストレスを減らす人生に寄与する。ここ最近、僕はそう確信しつつある。

 

さて。自分事として受け止めると、誰だってイラつくし、誰だってバイアスが働いて冷静な判断ができなくなる。

 

だから自分事として受け止めない。「どうしましょーね」と気軽な気持ちで相談をする。難しければ最初のうちは、ChatGPTに相談してもいいと思う。

 

そんなくらいの構え方で過ごしてみてはどうだろうか。では今日はこの辺で。

 

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