校舎ごとにビラを作る裁量は与えられているため、自分の校舎を宣伝するためのそれを作ろうと、今は色んな広告例をザッピングしている。
正直な感想として、どれもこれも歯が浮くような謳い文句が目立つため、もはや誇大広告ではないかと、後ろめたさや恥ずかしさを感じてしまうものが多い。
そして実は同じことを、本の帯に書いてある著者紹介に感じることも多い。なぜだかわからないが、あのステータスの列挙がどこか恥ずかしい。
仮に自分が本を出すとして、あんな風に書かれたら、そこに盛られ倒した自分の像とのギャップに、頭を抱えて悶々とするのではなかろうか。
―だが、逆にだからこそ、疑問に思う。なぜそうも、ウソではない範疇でそこまで盛る必要があるのだろうか。そしてその答えは明白だ。でなければ埋没するからだ。
「良いものは何もせずとも必ず伝わる」とか、「生徒の手柄を横取りするようで気が引ける」なんてのは、正直組織を預かる者として失格の思考なのではないか。
今日はそんな危機感を言葉にしておこうと思う。
僕らが負っている、成績向上以外の責任。
色んな事例を見ても思うのだが、成績を上げるだけでいい、なんて甘い話は、どこにも存在しない。(アルバイトで講師をやっている人は別)
やはり資本主義社会にいる以上、会社として利益を上げて存続しないことには、どんな理想も画餅となる。
利益を上げるには手っ取り早い話、無駄なコストを抑えたうえで、売り上げを高めていくことが大切であり、そのためには顧客数・販売数・単価のどれかが増えればOKだ。
そしていずれを増やす場合にも欠かせないのが、積極的な広報、つまり顧客に対して、いい商品がこの世に存在していますよ、という前向きなアピールをすることである。
なんでもいいものを除けば、僕らが手に取る商品・サービス一つ一つに、それを選ぶ理由がある。
その理由こそが差別化戦略の結果なのだとすれば、やはり沈黙はただの怠惰だ。生徒の手柄を奪わないという思考は美徳に見えて、組織を殺す最悪の判断だと言える。
逆だ。もちろん許可は取ったうえで、積極的に押すべきなのだ。そうすることで企業として存続する糧となるなら、巡り巡って何も悪いことは無いではないか。
例えば、特に何の功績も発信しない塾は、発信する材料を提供できない、すなわち教育の質としてダメなところとして認知されるに決まっている。恐ろしすぎる話だ。
それについてアーダコーダ言ってくるところがあったとして、そういうところに用はあるかと自問自答すれば、「ねぇわ」と一蹴できる。僕が向いている先にいない人達。
実はこの記事を書いている今も、高2で英検2級一次突破とか、そういう嬉しい報告がバリバリ上がってきている折である。これを黙して語らないのは、あまりに酷い。
積極的にこれを活用し、企業として健全に存続させること。大袈裟かもしれないが、僕が負っている責任はそこまで含んでいると、今はすごく納得している。
・・・不思議な話だが、僕がいるこの校舎は、データを取ると解るのだが、実は英検に強い。多分僕自身が準1級と1級保持者という何かがあるから、話がし易いのだろう。
それ自体、よく考えればウリとなる強みだ。TOEIC受けてないじゃんwといった謎のマウントを取られることに、ビビっている場合ではない。
マウントを取るヤツらに媚びたとして、良いことはあるだろうか。鼻で笑って、「ねぇわ」である。
さぁ、色んな掲示物の例を見まくって、生徒たちの手柄を褒め称える広告を作ろうではないか。それが僕の仕事である。改めて腹落ちした。
では今日はこの辺で。