精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【英文読書ルーティン日記149】"THE GREAT UNKNOWN"読書感想ブログⅫ ~宇宙の形を問う~

神話を疑えば罰された。常識を疑えば嘲笑された。しかしその痛みを負いながらも止まらなかった人が、世界の見方を変えてしまう。そんな印象を僕は持つ。

 

他者からの攻撃を、人はなぜ恐れるのか。そうすると味方がゼロになるという恐怖があるからだ。しかし実は、万人に嫌われることもまた不可能なのだ。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

例えばヤクザや不良は、市井の人から煙たがられるが、同類とは強固な仲間意識を築き、その中で幸せに生きていたりもする。

 

一見敵しかいないように見えても、視野を広げれば味方は居る。純粋に真理を追うことを通じて、そんな文系なことを僕は考えている。

 

それくらい、宇宙を取り巻く学会の勢力図は、色々ドロドロなのだ。宇宙がテーマの項を読みながら、そんなことを思う。

 

では今週も、ざっと読んでいこうではないか。

 

 

10月23日(月) 三角比。

 

視差というものがある。これを小規模に体感するのは簡単だ。片目を瞑った状態で右手を前に出し、人差し指を立てる。その状態で、閉じている眼をスイッチする。

 

そうすると、ぴょんと指の位置が変わったように見えるはずだ。これが視差だ。数百年前の人たちは、この視差を感知できれば、星までの距離がわかると期待した

 

しかし、星までの距離は途方もなく遠く、地球が宇宙空間を高速で回っているという事実を加味しても、検知は容易ではない。肉眼では絶対に不可能だ。

 

文字通り血が滲むほどの努力の果て、超極小の視差を得た人がいた。視差さえ得られれば、実は三角比等の数学的武器で数値を出すだけだ。

 

しかしながら、言うは易し。以下の説明を読めば、その滅茶苦茶な難易度が見えてくるのではないだろうか。

 

我々の住む地球が太陽の周りを1年かけて公転しているために、例えば夏と冬では天体の位置(地球から見た方角)はほんの少しだけ変化します。

 

この天体位置変化を年周視差と呼びます。


年周視差と天体の距離は反比例するので、年周視差を観測することができれば何の仮定もなしに天体の距離を直接求めることができます。

 

ただし、年周視差は人間の目には見えない大変小さい量で、例えば銀河系の中心にある天体を観測した場合、年周視差は約3000万分の1度という途方もない小さい値になります。

www.miz.nao.ac.jp

 

その執念には、時を超えて脱帽するしかない。本当にそう思う。

 

10月24日(火) 意味不明な距離を求めて。

 

星の距離は本当に意味が分からない。例えば夜空に光るとある星は、明るくて遠くにあるやつなのか、暗いけど近くにあるやつなのか、判別が難しい

 

そこに革命を起こしたのが、リーヴィッドという名前の女性である。彼女は直接夜空を観測したのではなく、データを見つめることで、ある真理に気付いた聡明な人だ。

ja.wikipedia.org

 

変光星という光の強さが周期的に変わるものがある。その周期を見ると、例えば遠くにある星は周期が長いという特徴があることに、彼女は気付いたのだ。

 

それを手がかりとして、星までの距離を導き出す。誰もが手が届かない世界に、思考を届かせたという意味で、その頭脳の明晰さには本当に舌を巻く思いである。

 

10月25日(水) 宇宙を押し広げる。

 

全ての星は天の川の内側にあるのか、それとも天の川の外にある天体もあるのか。この議論は初期の頃、正直権威と野次による泥仕合だったそうだ。

 

その論争にケリをつけたのは、エドウィン・ハッブルその人であり、彼は遠くに見える星雲の中に、先述の変光星を発見したのだ。

 

その周期をリーヴィッドのデータに当てはめたところ、その距離は天の川銀河の外になければ説明がつかないことが判明したのだ。

 

これによって、宇宙はさらに途方もないスケールに拡大されることとなる。そしてその後には、100億年超という時間軸にまで延びる、と。

 

子供の頃に図鑑で読んですんなり腑に落ちたはずなのに、大人になって読み返すと、無茶苦茶なことを言ってるなと気づく。だから宇宙は面白い。そう思う。

 

10月26日(木) インベーダーゲームモデル宇宙。

 

宇宙の果てとは何なのか。おそらく男子なら一度は考えて夜眠れなくなる命題だと思うのだが、その解釈の1つに【有限だけど無限】という風な言い回しがある。

 

これを端的に説明するのがテレビゲームだ。画面左端に消えたキャラが右端にワープし、上端に消えたキャラが下端から出てくる。

 

僕らが見ている世界は、テレビモニタという有限のエリアだ。しかしアイコンの移動はまさに無限。始まりと終わりがつながった世界を、延々とループする

 

宇宙もまたそうなっているのではないか。あるいはそれとも、全知全能の存在が作った超巨大なシミュレーションゲームの中に、僕らがいるだけなのだろうか。

 

そうなるとそれを観察する客体がいることになり・・という風に、天文学と哲学はすぐリンクするところもまた、無限という言葉とのつながりが見えて、面白く思う。

 

10月27日(金) 地球は丸い。

 

地球は丸いのではないか。我々は平面に立っているのではなく、超巨大な球体の上に立っているだけではないか。そういう問いは、古代から存在していたそうだ。

 

船をずっと見ていると、水平線の向こうに消えていく。月食を見ると、丸い形に蝕が進む。しかし仮説は立てられても実証はできず、時はそのまま流れたそうだ。

 

誰しもが文句を言わない形で地球が丸いことが証明されたのは、ざっくり1500年代のこと。マゼランが世界一周を果たしたのだ。(当人は航海の途中で没しているが)

 

ひたすら平面が続くなら、「一周」という概念もあり得ない。千年以上続いた問いが、こういったいわゆる脳筋な手法でクリアされたのは実に興味深い

 

地球は丸い。だって見てきたんだし。なんと純粋で壮大な答えなのだろう。

 

10月29日(土) どデカヘドロン。

 

Dodecahedronという図形がある。いわゆる十二面体のことらしいが、ローマ字読みが「ドデカヘドロン」という感じの発音になり、何か面白さを覚える

 

なぜ急にドデカヘドロンの話をしたか。それは、観測で得られたデータを分析すると、宇宙の【形】はこれであると仮定するとしっくりくるから、らしいのだ。

 

僕は、宇宙は巨大などら焼きのような形をしていると想像している。だからこの仮説はなかなか手触り感や納得感が無いのだが、データがそう語るなら、そうなのかも。

 

常識は本当に何も担保しないことがまた一つ、この仮説を通じて学べた。ドデカヘドロン、さまさまである。

 

10月30日(日) 宇宙の果て。

 

宇宙の形を語る際、前提でないといけないのが、自分たちがいる地球の位置が、そもそも特殊な条件下に無いことである。

 

例えば世界が半球(真球を半分にした形)であるとした際、曲面にいる人と、平面にいる人とでは、世界の形の解釈が全く違うはずである。

 

それと同じで、僕らがいる場所が特殊な環境下であるならば、それを一般化して宇宙全体の形を推測するのは、かなり的外れになってしまうのだ。

 

Ifを一つ考えただけでも、人類による推論を拒む存在。宇宙はやはり、手に負えぬほどの真理を、まだそこに内包しているようである。

 

では今週はこの辺で。

 

 

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