各大手予備校のシステムが立ち上がり、大学受験における志望校の判定が出てき始めた。まぁ、悲喜こもごもだ。
英語に関しては『弱者切り捨て』のにおいを感じていたが、割とそうだったらしい。高得点層は一切揺るがず、逆に中間層が下位層に落ちたイメージである。
ま、それはそれ。過去は過去。変えられるのは自分か未来しかないですよ。ってことで今週から、僕の受け持つ生徒の中でも『二次試験対策』が始まっていく。
ぶっちゃけ1級を取ろうが、二次試験が楽勝なんてことは無い。特に英文和訳と和文英訳は非常に難しく、予習しなければ簡単に撃沈し権威が失墜する。
今週はそんなタフな授業が降り重なって、へっとへとになる週の日々を書いてみやんす。
- 1月26日(火) ―難関二次VSぼく―
- 1月27日(水) ―ミクロ経済学VSぼく―
- 1月28日(木) ―箔を追っても幸せにはなれない―
- 1月29日(金) ―塾講師としての矜持は僕には要らない―
- 1月30日(土) ―自己犠牲と献身の境目―
- 1月31日(日) ―一人で校舎に居て思うこと―
1月26日(火) ―難関二次VSぼく―
このシーズンになると頭を抱えるのだが、僕を英語の現人神みたいに捉えているのか、二次試験の英文をポンと質問に持ってこられることが増えた。
『えらい読みづらいけどなんやこれ』と思ったら上位私大だったり、『読みやすいけど答えるのムズいなぁ』と思ったら東大だったり。
これに数分で即答するのは無理だ。答えるだけならまだしも、解説を添えねば生徒のリクエストにこたえたことにはならない。
『こんなん捨て問や!!』という魔法のフレーズで躱したい場面もあるが、それはグッと堪えて、『講師の力量を高める千本ノックみたいなもの』と解釈している。
今僕の机上には、順番待ちの質問が結構溜まっている。山口大学、岡山大学、早稲田大学、福岡大学、広島大学・・・全部僕の母校よりレベル高いんですが。
・・いいじゃん、面白い。久しぶりに歯応えのある勉強、満喫してます。
1月27日(水) ―ミクロ経済学VSぼく―
何度かチラっと書いたけど、僕は経済学部の出身で、そこで世界経済のかっこいい理論をかじる学生生活を4年送っていたはずだった。
しかしちょっと前、以下の実用書を読んで驚いた。ほとんど意味がわからなかったためだ。
何とか4周くらいして理論の骨組みは叩き込んだが、これはかなりショックだった。4年間も学んで!入門レベルにさえ!難儀するなんて!!!!!
ってことで校舎に入っている大学生に教科書を借りた。やったね、これでぴちぴちの18歳ごろに戻れるよ!!
初心、忘れるべからず。僕はコンプレックスをガソリンに努力する人間だ。仕事に支障が出ない程度に、学び直し、頑張りましゅ。
1月28日(木) ―箔を追っても幸せにはなれない―
中学生の志望校決定が大詰めだ。人生スパンで考えて行きたいところを決めるケースなど滅多にないのだが、違うケースは圧倒的に多い。
【〇〇高校に行けば安心・安全・人生が変わる】というものだ。つまり、今までの、そしてこれからの人生を、高校のブランドで何とかしようというタイプ。
断言するが、このタイプの価値観・生き様が拗れれば、幸せになれることは稀だ。少し思考実験をすれば簡単にわかる。
例えば、県内で一番賢い高校に行ったとする。だがそれは、他県の高校から見れば大したことがないってケースも、割とある。
だから頑張って国公立に進学したとする。だがそれは、東大京大とかからみれば、存在すら認知されないくらい偏差値が違うってケースもある。
必死に頑張って東大京大に進学したとする。だがそれは、ハーバードから見ればやはりレベチだし、東大内でもできる・できないが存在するのに違いない。
それでも才能が覚醒してハーバードで一位になったとする。でも、高卒の社長がデカい会社を作り、より稼いでいるとなれば、それすらなんか霞んでいく。
世の中は学歴だけでは回らない。頭の良さより顔の良さ、数字の強さよりケンカの強さ、世界変われば価値観も変わる。
コンプレックスを他のもので埋め合わせようとする生き方の先にあるのは、自己否定が前提の人生だ。それはかなり不幸だし、切ないし、悲しい。
他者比較をこじらせると、やはり良いことは無い。あなたはなにをしたいのか?あなたはなにがしたくないのか?内省が浅いと志望校選びは絶対に後悔を残す。
『僕は国公立出身でね(クイッ』『それで?今は何をされてるんです?』化けの皮は、同じステータス以上か、それに興味が無い人間を前にすれば、簡単にはがされる。
ステータスでしか自分を語れなくなる。そんなことになる生徒が減るよう、面談はかなりシビアに行う予定だ。今日明日、勝負どころである。
1月29日(金) ―塾講師としての矜持は僕には要らない―
超どうでもいいが、僕には理想とする講師像は存在しない。じゃあてめえは何を目指して講師をやってるんだと言われそうだが、それは生徒によって完全に変わる。
もちろん集団授業のときは、円滑な運営のために価値観・ゴールをある程度統一することもある。
しかし基本は、生徒ごとに異なるモチベや目的地を考えて、把握し、生徒がそれを達成できるよう、僕は自分のスタンスをコロコロと変える。
ある程度できるなら、シビアに点数を追いかけたり、ライバルの存在をほのめかしてやる気を燃え滾らせたり、志望校との差をリアルタイムで示したり。
しかしそもそも勉強が壊滅している場合は、それら全てが自尊心の破壊につながってしまう。だからその手を十把一絡げに使うことは、僕は無い。
だから勉強とかマジ嫌というタイプには、最低限の解き方を伝え、実際に出来ることを確認させるとか、答えまでガンガン誘導して『解けた感覚』を味わってもらうとか。
そういう『体験とか経験』を売るように、僕は考えるようにしている。
だから僕は、『自分はこうあるぜ!』という理想の講師像なんて矜持は絶対に要らない。そうすると、僕は結局たくさんいる中の一人に成り下がる。
生徒一人一人に寄り添った指導など、言い換えればカメレオンのごとく接し方を変えられるという意味に他ならない。
カメレオン上等。僕は玉虫色な塾講師でありたい。
1月30日(土) ―自己犠牲と献身の境目―
少し悩んでいることがある。明日、僕は完全にオフなのに加え、会社からの命令で県外への移動も控えるよう言われているため、超暇なのだ。
強いて言えば夜に釣りに行こうかなと考えているくらいなものだ。そんな折、生徒から、『ちょっとでいいから自習のために開校してほしい』とねだられたのだ。
個人的には『ノー問題』である。校舎を開けるだけ開けて、コーヒーでも飲みながら優雅にブログを書いてればいいんだから。
しかし、これを堂々と会社に言うのは少し悩む。休日出社に対する世間の目は厳しいとかなんだとか、そんな話だ。
これは自己犠牲なのか、献身なのか、はたまたもっとラフな暇潰しなのか。もちろん質問対応といった仕事には答えるけれど、僕の中では暇潰しが一番近い。
ヘンな話、一人で過ごすのが好きな僕だが、何も一日全部という意味では無いのだ。少しくらい人と接する時間は欲しい。病んでしまう。
折衷案は何かないかしら。そう思ったので、個別授業のコマが浮いていた分を明日にぶち込んだ。こうすれば仕事として堂々と来れるし、そのまま粘れば開校も可。
自己犠牲かどうかは、自分が楽しいか楽しくないかを考えればわかる。僕はそれを超越して、こういうのは必要な時間なので、誰にも文句は言わせない。
スルーしてくれればそれでいい。
だから明日、僕は校舎を開けて、じっくり考え事に取り組む予定である。
1月31日(日) ―一人で校舎に居て思うこと―
今日は考え事をしている。といっても、変えられない過去を悩むとか生産性の無いことではなく、ぼんやりと『やりたいこと』に輪郭を与えるような時間を過ごしている。
僕はもっと校舎をワイワイさせたいのか?と自分に問うたが、それはそれで何か本質からズレている気がする。30人を前に授業をすることは夢ではなさそうだ。
なら、圧倒的な結果を出すスーパー講師になるってのはどうだ?それは確かに面白そうだが、一番になれそうにないので気乗りしない。
あれはどうだ、これはやだ。子供みたいな問答をずっと繰り返しながら、それでも少し見えてきたこと。
僕は仮説を立ててそれを検証するのが好きなので、ずっとそれを続けていたい。ふわっとしたが、それが理想の生き様である。
つまり、その都度その都度目標を立てては変えて、確かめては再検証して、結果それで繫栄させればいいかと、よくわからないことを考えている。
ちなみに現在のたくらみは、新小6と新中1を斬新な方法で集客することである。だから今は、本を貪り読んで仮説を作るために四苦八苦している感じ。
例えばもっと入塾までのフローを”なめらか”に出来ればいいなとか、思うところはある。明日で2月になっちゃうし、行動はさっさと起こさねばな。
今日中には『仮説』、作り上げます。
では今週はこの辺で。