さっき、各ご家庭に送るメールを、一部送り先を間違えて送信してしまった。個人情報に繋がる内容ではないが、単純に「ミスをした!」という事実に、動揺している。
すぐに謝罪文を送って、多分事なきを得たのだが・・・例えば「どうなってんだ!」みたいな面倒なイチャモンが来ないか、少し不安っちゃ不安である。
いわば「たらどうしよう」恐怖とでも言おうか、とにかく未来を悲観的なバイアスたっぷりでシミュレートし、それが現実になることを恐れる状況下にあると自覚している。
これはこれで1つの学びの機会だ。そう考え直して、今の自分の胸の内でわだかまる感情を言葉にして、適当にGoogle検索に放り込む。
すると、結構ドンピシャで勉強になりそうなサイトを発見した。今日はそれをベースに、ある種科学的に「不安」を考えてみるという、そんな記事である。
「不安」とは、ノルアドレナリンが大量に分泌された状態である。
【観察力の鍛え方】や、仏教の法話集を読んで、不安という感情については、ある程度理解した気になっていた。それは未知に意識が向いていることだ、と。
しかし先に紹介した記事を読んで、また新たな観点から見つめ直すきっかけになった。
その部分を抜粋して引用する。
不安を脳科学的にザックリと言えば、ノルアドレナリンの分泌です。人間が緊張、不安、恐怖の感情を持つとき、脳内物質のノルアドレナリンが分泌されます。
(中略)
闘争か、逃走か。ノルアドレナリンが分泌されると脳が研ぎ澄まされ、集中力が高まり、どうすればいいのか一瞬で判断できるようになります。
そして、ノルアドレナリンとともにアドレナリンも分泌され、心拍数が上がり、全身に血液が行き渡り、いてもたってもいられない状態になります。
全力で走って逃げるか、果敢に闘って打ち負かすか。ノルアドレナリンが引き起こす「不安」や「恐怖」が、ピンチを脱するエネルギーとなるのです。
つまり、ピンチのときに「さっさと行動しろ!」とあなたを猛烈にせかす物質が、ノルアドレナリンです。
僕は脳内物質に「とっとと行動して現状を変えろ!」とせっつかれている。これ自体、すごく面白い解釈だと思うし、同時にとても建設的だとも思えてくる。
頭の中にガソリンが無尽蔵に湧いているようなものだ。それをうまく行動に繋げられれば、爆発的に成果を生むことにもなり得る。夢のある話ではないか。
―ただここで、ふと立ち止まることがある。そもそも論、行動とは何だ?パッと思いつくのは、身体を動かすことだが、そんなに浅い話なのだろうか。
そう思って調べてみたが、例えばかなり難解な論文がヒットするなど、分野によって行動の定義はとても曖昧であり、逆に混乱するだけになってしまった。
そんな中、すごく「なるほど」と思ったのは、以下のブログである。
これによると、行動しろと言われて第一歩が出ない場合、それは行動ではなく成果だけを考えているから、という指摘があった。
ここで使われていた例が「ダイエット」だ。「ダイエットする」は、行動かどうか。これについて、もし行動であるなら、「今すぐその場でできること」だという。
仮に僕が、今すぐこの場でダイエットをしろと言われたら、猛烈に困る。これはつまり、ダイエット自体は行動ではなく成果であることの証左であるそうなのだ。
では、行動とは何か。これは簡単と言えば簡単で、それをすると成果に繋がるプロセスのことである。ダイエットでいうなら、食事制限や運動がそれに該当するだろう。
―しかし、ここまで書いて気が付いたが、不安によって得たノルアドレナリンというガソリンを、別の目標に向けてそのまま転換することは可能なのだろうか?
だがこれは、結構具体例がある気がする。試験勉強が不安だから、部屋の掃除に精が出るという現象は、まさしくこれではないか。
ではなぜ、不安をそのまま勉強にぶつけられないのだろう。不合格という不安があるなら、それは勉強することでしか消えそうにないのに。
実はそのメカニズムも最初の記事で触れられていて、思索といった肉体の動作が伴わないものでは、不安や恐怖の発散が困難らしいのだ。
しかし言語化というプロセスを踏めば、まだそれを転化できるとのことで、例えば小論文の学習や計算問題を解くとか、英語の音読学習をすれば、少しは活用できるそうだ。
こう考えると、やはり不安というのはある意味原動力。むやみやたらに否定するのではなく、上手く観察し、乗りこなすのが丁度いいと思える。
では今日はこの辺で。