精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「リーダーなのに孤独を感じなくて不安」”でした”。

以下の記事は、書き始めたはいいものの、途中でピタッと手が止まり、そこから1ヶ月くらい放置していたものである。

 

当初のタイトルは、【「リーダーなのに孤独を感じなくて不安」です。】というものだった。確かにその不安は感じていたが、言語化と観察が不十分だったらしい。

 

そこから期間が空いて、色々とインプットを重ねた結果、ようやく「続き」が書けそうという思いが湧いてきた。その過程で、タイトルもちょっと変更した。

 

ということで冒頭はこの辺にして、以下本題である。

 

――ここから、1か月前の記述――

 

ちょっと前の記事でも愚痴ったが、僕は一応リーダー的立場にいるのに、リーダーの方々が感じるという”孤独感”を抱いておらず、そのことが凄く不安になっている

 

部下という言葉は嫌いなのだが、自分の周りで働いてくれる講師も多く、保護者との関係性も、一部の合わない人を除けば良好だと感じている。だがこれは・・正しいのか?

 

僕が孤独を感じていないのは、単に鈍いとかそういうのではなく、考え方や働き方に致命的なバグを抱えているからではないか。そんな恐怖が最近立ち込めている。

 

そういえば、僕がリーダーについてガッツリ勉強したのは、リーダーという肩書を得る”前”であった。

 

なったあとに振り返ってやり直す時間を取っていないことに、ふと気づいた。では今なら、あの時読んだ本や聴いた講演会から、また違った学びを得られるのではないか

 

そう考えて、あの時のガッツリ学んだ教材を再び取り出して、しげしげと読み返している。すると、やはりビンゴ。今の僕に刺さるフレーズは、あのときと異なっている

 

今日はそんな手応えを、言葉にして、ここに書いておく次第である。

 

 

孤独の正体。

 

学び直してすぐに気付いたのは、孤独とセットになっている、ある場面の存在だ。それは、【決断】だ。決断をする人ほど、そこに孤独を感じている。

 

「リーダーは、孤独に決める」。そう言い切る記事さえある。そしてそこに、「確かにそうかもな」という感覚を僕は抱く。そこで、特に身が引き締まった箇所を引用する。

 

自分の意思だけで決断するのは、誰しも辛いものです。

 

できるなら社員や部下に決断をしてもらって、多少なりとも自分の責任が軽くなればいいのにと考えてしまう人も多いでしょう。

 

しかし責任の重さは役職で決まります。決断の役割を誰かに代わってもらったとしても責任の重さは変わりません。

 

「そのしんどさ」を背負って初めて、リーダーとしての責務を果たしていることになります。

 

したがって社長は誰の助けも借りずに、孤独に決断しなければなりません。

 

情報提供やアドバイスを受けることがあっても、最後の決断と結果への責任は自分で引き受けてこそリーダーなのです。

souken.shikigaku.jp

 

とはいえ、「決める」ことを目的に据えると、恐らく何かが狂うだろう。決めるとは、何かを進めるための通過点や儀礼に過ぎない。僕が考え抜くべきは、その先だ。

 

その先とは、最終的に到達したい、達成させたい理想のなにかである。だが理想とは、ある意味極楽浄土や悟りの境地と同じで、到達も言語化も不可能という気がする。

 

ところでリーダーは、ある意味ただの”役割”だ。チームのメンバーより立場が上なので、だから偉い・・・なんてことはない

 

ただ単に、目線を高くして、大局観をもって組織をマネジメントするのが、リーダーたる人の仕事なのだ。そこを間違えると、本当に意味で孤独が待っている・・。

 

そして目線が高くなれば何が起きるかというと、ある意味、他のメンバーより遠くが見えるのだ。その地点は、低い視座にいる人からは見えない世界となる。

 

「このままでいい」というメンバーの声をその通りに受け止めて甘んじれば、嫌われはせずとも組織ごと泥舟に代わり、いずれ沈み、"全員が”不幸になる

だから先導する。リーダーだけが見える世界を目指し、引っ張っていく。そのために下す決断には、必ず見えないからこその反発がある。その1つ1つが、孤独ではないか。

 

大げさだが、リーダーは得てして、理解されない。視座が違うからだ。もちろん説明しよう、共有しようと努力はするが、限界はある。ギャップはゼロにならない。

 

それによる反発をしっかと受け止めながら、同じ組織の一員でありながら、肩書一つで壁なり疎外感なりを感じながらも、冷徹に頑張り抜くこと。

 

僕はその姿勢こそがリーダーの本当の在り方であり、つまりそれが体現できていることとセットなはずの孤独を感じなくて、不安だったのだと思う。

 

・・・しかしそれは、ちょっと近視眼的すぎた。実際、例えば組織の規模が小さくて、そもそも物理的な距離が無いといった理由があれば、別に孤独はセットではないっぽい。

www.sady-editor.com

 

しかも、僕が今追求したい在り方は、そもそも先頭に立つリーダーとしてのモデルとはだいぶ異なっている

 

いわば博物館や美術館の館長よろしく、場を創るために奔走する人が僕の理想とする働き方であり、いるのかいないのか、それすら曖昧な立ち位置を僕は望む。

 

となると、そもそも孤独の定義にかすりもしないように思えてきた。僕は集団から浮くほど、個として際立つことをしようとしていないのだから。

 

今の僕は、実はさほど不安を感じていない。なぜかと言うと、解像度は多分そこまで高くないのだが、僕が理想とする長としての働き方をトレースできているからだ。

 

強いて言うなら、思っている以上にお金的な成果が出ていない方が不安と言えば不安だ。ただこちらは、焦燥の方が感情としては近いのだけれども。

 

ということで書き終えてみればただの被害妄想という感じがして拍子抜けなのだが、今日はこの辺で。

 

 

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