精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「ゆとり世代」と「思考力重視世代(仮)」の陰陽を考える。

今日は「なんだかんだで詰め込み教育の段階も必要だよね」というテーマで、記事を書いてみようと思う。

 

かくいう僕自身は、いわゆるゆとり世代だ。この呼称は割と嫌いだし、この時期の教育が良かったか悪かったかというのは、まだ歴史的評価の途上だとしか考えていない。

 

その時分の文部科学省が、どんな認識や目的でそれを始めたかはよくわからない。調べるのも正直、めんどくさいほど、あんまり興味は無い。

 

ただ僕のイメージでは、【知識偏重型】からの脱却を、最終的な目的に据えて改革に乗り出したのではないかと感じている。

 

いわば「知識を詰め込んで、それを使って、例えばクイズ番組のように一問一答へ即答できる」という評価体制を転換させ、ゆとりによって自由な発想を促す、等。

 

結果としてそれが価値観として甘ちゃんだとか、そんなことを言われてる状態ではあるのだが、 先述の通り、その辺はまだ途上だと思う。

 

ただ同時に、「知識に偏り過ぎだったから、一気にゆとりにしよう!」という振り切りは、いささか極端すぎではなかったかな、というはちょっと感じている。

 

今日は主に、それについて私見をウダウダ書いていく。

 

 

ゆとりや詰め込みは悪で、自由な思考が正義なのか?

 

そもそも教育において、段階を無視して「詰め込みはダメ」「ゆとりは甘え」「自由な思考こそ必須」といったジャッジを下している時点で、何かズレていると感じる。

 

例えば知識の詰め込みとアクティブラーニングは、どこか対極的な響きに聞こえるが、どっちかがわかり易く正解なのではなく、単純にどっちも要るのが本当のとこだろう。

 

自分がやったこともない、触れたこともない、なんなら興味もない何かに対し、いきなり創造性を発揮しろと言われても、それは本当に謎の行動に他ならない。

 

ある程度は、偶然でも興味でも環境でもなんでも、その対象に夢中になれる時間とかがやっぱり必要であり、その期間はつまり、経験値やルールの”詰め込み”となる。

 

遊びのように、肩の力が抜けて、それでいて全力で、かつ集中したメンタリティを通じて、経験値やルールを身体を通じて叩き込み、詰め込んでいく

 

当人には努力をしている自覚はないだろうが、傍から見ればそれは努力だし、濃い時間で様々なことを詰め込めば、急速に成長ができるというのは想像に難くないだろう。

 

だからといって、それが継続的な成長を保証するかというと、それもまた違う話だ。遊んでいるだけでプロになるなら、誰だってそうなる。つまり、必ず頭打ちになるのだ。

 

さらなる成長に必要なのが、この段階できちんと【型】を習得することだろう。あらゆるスポーツで、基本動作の重要さは何度も何度も説かれていることからも解る。

 

夢中になって一気に成長した後は、型によって更に洗練させていく。これらは独学から、先達による指導への橋渡しとして、とても大切なステップとなる。

 

そして、いわばここまでが詰め込み教育の扱う範囲だと思う。特に後者の、【型】自体の学習と習得、そしてテストでその通りに書くことが、強く求められたのだ。

 

つまり、そのゲームのルールを理解したら、その時点で評価してあげる、ということだ。仮説と検証、工夫を経て、自分なりの熟達に至る前に、ストップが掛かる。

 

「知識偏重」や「詰め込み型」教育がよろしくないとされた一番の原因は、この仕組みそのものにあるのではないかと、僕は感じている。

 

一方、その揺り戻しとしてもてはやされたのが、いわゆるクリエイティビティ・独創性・思考力といった、「かしこい子」を因数分解した後みたいな語句である。

 

僕自身もそれを重視し、どうすればそれを伝えられるのか、骨を折り続けているところはある。しかし悲しいかな、段々とある結論に辿りつきつつあるのも感じる。

 

それは、そういった力は開発はできこそすれ、丸ごと移植することはできないということだ。当人が己の中で四苦八苦・創意工夫を重ねた果てに、そういった力は宿る。

 

将棋を知らない子に最新の棋譜を渡してもなんにもならない。知識・興味・経験・環境、こういった要素が複雑に絡み合わないと、やはり創造力や思考力は育まれない

 

自分独自の理論や熟達というのは、いわば既存の知識の詰め込みや、徹底した基本動作を習得した先に待っているものだ。

 

それを表面上だけ無理矢理言語化し、その世界をいきなり伝えたところで、何もできるわけがないっていうのはすごく当たり前なことだ。身も蓋も無いが、そう思う。

 

持論だが、正直言って小学校~中学3年ぐらいまで、つまり義務教育の中では、僕は徹底して詰め込み型でいいと思っている。

 

いわゆる「頭がいい」と評価される子というのは、それに取り組んだ理由こそ様々だが、やっぱりテクニックや知識を”詰め込んでいる”ものではないだろうか。

 

ゆっくりゆっくり丁寧にやっていくのも大事だが、それは夢中というフェーズが終わった後の話だ。

 

多少粗削りでも、どこかのタイミングできっちり集中し、知識と経験、コツを詰め込む方が、トータルの成長は早いし、広い。

 

だからやはり思う。詰め込みがダメなのでも、ゆとりがダメなのでも、創造性こそ手放しで喜ぶべきものでも、どれも不正確だ。

 

それは何か巨大な建造物を支える極太の柱のようなものだし、あるいは階段の下段・中段・上段のように、そもそも成長の段階ごとにつけられた名前だともいえる。

 

一番つまんないオチではあるが、だからこそ結局一番大事なことではないか。どうしても僕は、そう思っている。では、今日はこの辺で。

 

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