精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「勉強」の究極的な目的の一端が見えたかもしれない。

人生で一度は訪れる、「なんで勉強せんといけんのか」というフェーズ。それを通り抜けて久しいが、職業柄、この問いに向き合う回数は人一倍長いと思う。

 

ここで言う勉強は、学校教育における国数英理社の知識に関することだと思うのだが、それそのものに絞れば、ぶっちゃけ社会に出てから詰め込む意味はあまりない

 

とりあえず講師業みたく学校の知識を伝えることが仕事である場合とか、それこそ研究者に進まない限り、そういった知識を直接的に使う場面は少ないからだ。

 

しかしながら、勉強そのものに意味がないとも思えない。それに自分がしっかりと納得できる理由付けが、なかなかできなかったというだけだ。

 

ただ今日、本当に空き時間にぼんやりと考えていたところ、「あ、勉強する理由って、もしかしてこれか?」と思い当たることがあった

 

その手ごたえをしっかりと文字に落とすべく、そんな話を今から書いていく。

 

 

つまり社会を成長させるため。

 

僕が思うその理由とは、経験則を人に伝えるため、また人から伝えられた経験則を理解するため、というものである。

 

例えば、乱暴に言うと、国語で習う文法的な知識(特に接続詞)は、自分が頭の中にあることを人に伝えるためのツールだし、逆に読み解く際のヒントに使うものだ。

 

論理的な文が読み取りやすいのは、人間が知識や情報を読み取りやすいと感じる型にしっかりと当てはめて、情報をまとめてくれているからだと思う。(逆もまた然り)

 

とはいえ、全てに詳細な説明や具体例を添えて情報を伝え続けると、いくら論理的に記述してもそれを圧縮しきれず、データ量が膨大なものになってしまう。

 

だからこそ、受け手にもある程度の共通言語たる知識や経験値が求められる。受信する側に素養があれば、発信する側も情報を削ることができ、より端的にできるためだ。

 

そしてその両方を満たすために僕らは、勉強を通じて型を”お互いに”身に着けていくのではないか。僕はそんな風に納得している。

 

伝える型に習熟していない人の話や文章は、この上なく分かりにくい。また、理解する型を知らない人とやり取りするのは、この上なくめんどくさい。

 

発信も受信も、阻害されればされるほど、集団内で知識・経験が共有されず、競争に負ける。真の教養とは、この辺に根差すのではなかろうか。

 

そして今、その規模はそのまま国力に繋がってきているとも感じている。この辺まで行くと大げさだが、別に間違ってもないだろう、と。

 

僕が学生の頃、世界的に見て、日本人は読解が得意と言われてきた気がする。一方欧米諸国は、発信が得意。そんなステレオタイプが自分の中にある。

 

実際のところはどうなのか、よくわからない。Twitter掲示板のやり取りを見て日本人の言語能力を嘆く声はあるが、その辺を見て全体の能力を推し量るのは無理がある。

 

公園でサッカーをする少年たちのスキルを見て、日本はサッカーが弱いと考えるくらい暴論だろう。しかし、世界的に見てトップクラスだとも、あまり感じない。

 

実を言うと、知識を詰め込むことは勉強ではなく、下準備である。かつ、教科書に書いてある知識ばかりでなく、自分が体験して得た経験もまた、広義には貴重な知識だ。

 

学校の勉強がてんでダメだからといって、それが人間的な価値をそのまま決めることにはならない。もちろんこれまた、逆もまた然りである。

 

鍵は、それを上手に発信することだし、それを上手に受信することだ。仮に発信側が賢くても、受信側がアホなら、誤読された情報が拡散することになる。

 

一方、発信側が多少たどたどしくても、受信側にしっかりとした力があれば、それを汲み取ってわかり易い文章や言葉に組み直すこともできる

 

こんな風に、勉強を通じて、社会全体が知恵を付けていく。そう思うと、勉強は本当に大切だし、同時に、しないことの功罪は本当に大きいなと、改めて感じてしまう。

 

伝えてナンボ、読み取ってナンボ。両方が求められる仕事に就いているからこそ気付けた、ある種の模範解答の1つなのかもしれない。

 

では今日はこの辺で。

 

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