今日は、最近オワコンと捉える風潮さえも感じる集団授業の意義について、自分の考えを述べてみたい。
実際、近年の問い合わせの傾向を鑑みても、やはり個別授業が重要視され、集団形式のそれは段々と減りつつある。色々足掻いてみたが、これは”時流”なのかもしれない。
いわゆる全員に同じことを教えていればよかった時代から確実にシフトしており、生徒一人一人に合わせたカリキュラムやプランを与えることが、強く求められている。
そういう意味では、無工夫な集団授業は確かにオワコンなのだと言える。実は僕が近い将来に今の形の講師を引退したいと言っている理由は、ここに関連している。
ということでここからは、それを前提としたうえで、私見をうだうだと書いていく。
新しい講師像を考える。
集団授業が成り立っていた背景には、何があったのか。例えば、コンピューターやインターネットが普及していなかったことはかなり大きいだろう。
教員や講師こそが、知識を教えられる唯一の存在。需要に対し供給が追い付いていないからこそ、そこに価値が生まれ、存在することができたと言える。
また、教わったことを頭に叩き込み、そのままテストでそう答えることが社会から求められていたという側面もある。だから、”教わり方”に、そこまで違いが無かったのだ。
しかし、今では勉強法や知識自体が完全にオープンソース化し、何を教わるか自体は、まるで意味のない問いに変わってきたと感じている。
わからないことがあったら先生に聞くより、YouTubeを観たり、ChatGPTに聞いたりする方がラクだし、早いし、多分質もいい。身も蓋もないが、これは事実だと思う。
いわば、この世は大量の【型】で溢れている。講師や教員独自の【型】自体に価値を見出すのは、供給量を見てもかなり難しいと言わざるを得ないのだ。
おまけに、そもそも過去の傾向を線で繋いで行けば、未来のテストで点が取れるというトレンドも、終焉を迎えつつある。
過去の傾向に全くない問題が問われることが、一貫した傾向になりつつある学校も多い。公立高校入試も、そんな様子を感じる。
ただの知識の集積が試験に通用しないだけじゃなく、おまけにコンテンツという【型】も溢れている昨今、さて学習塾や教師の仕事とは、果たして何なのか。
そのことを自問すると、ヒントになると直感で思ったのが、アスリートとコーチの関係性だ。特に「熟達論」を読んで以来、その思いは強くなっている。
野球でもサッカーでもコンクールでも、競技という舞台とルールは同じで、かつ目標は「勝つ」というただ1点なのに、競技者が辿るそのプロセスがまるで違う。
【型】は存在するのに、それだけで勝てない世界が広がっている。その中で勝つために、コーチが必要とされ、アスリートは相当な努力が求められる。
それを講師業に転用するなら、どうなるか。集団授業ではなるべく普遍的な【型】を教え、仮にそれに苦戦している生徒がいたら、演習中に別の【型】を教えるのはどうか。
形式的に個別対応が難しい中でも、うまくオーダーメイドな部分を提供し、生徒を観察したうえで必要な【型】を手渡していく。これからの時代の講師は、これではないか。
今まで以上に、学び手の成長段階やニーズを的確に見抜き、望む方向へ導く、コーチングの力が求められているのではないか。
知識の提供は既にスタンダード化した。だからこそ、オーダーメイドが価値を持つ。それゆえ個別授業が求められるのももっともだが、集団をそれに寄せることはできる。
そのために、僕は何をするべきなのか。暫定解は、僕が今まで積み重ねてきた成功体験や法則を手放し、様々な【型】や情報を集めておくことだと考えている。
教員や講師の仕事から「知識の伝授」をアウトソーシングできたら、一体何が残るのか。そしてその中で、商売として価値になるものはなんなのか。
今後もこのテーマについては都度考察し、泥舟に乗り続けないよう、思考を深めていきたいと思う。
それでは、今日はこの辺で。