精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

宴会の次の日に不安になるのは、なぜ? ―深く観察すると、興味深いことがわかったの巻。

忘年会シーズンが始まった。僕はこういう酒席自体は別に嫌いではなく、むしろ好きなのだが、ここ3年くらいはっきりと、飲んだ次の日に必ず不安を覚えてしまう

 

起きてすぐ、自分の内に強い不安が生じていることを実感はする。しかし、その正体は完全に謎だ。ポケモンでいう「ゆうれい」より、全然その実体が判っていない。

実録 ポケモンホラースポット|本当は怖い?ポケモン|ポケモンだいすきクラブ

 

更にたちが悪いことに、大体半日くらいその不安に浸っていれば、綺麗にそれが霧散しているのだ。だから、あとになっての検証も、上手くすることができない。

 

「消えるならいいじゃん」という風にそのままスルーしても良いのだが、自分の感情について観察するいい機会でもあると、僕は考える。

 

だから今日、それについてじっくりと、思いを馳せてみようと思う。では以下、そんなに同意する人が居るとは思えない、宴会後の不安について、書いてみる。

 

 

仮説1:宴会の分人の正体が判らなくて不安。

 

不安感が強いのは、宴会翌日の起床直後、さらに言えば布団の中だ。だからそのとき頭の中にあるものを、忘れないようLINEのKeepメモに残しておいた。

 

そのメモ書きをベースに、この不安感を観察してみる。そもそも不安とは、「わからないもの」に注意が向いている状態だ。僕は何が判らず、”不安”なのだろう。

 

だからまず、いくつか自問してみることから始めた。「普段の自分とは違う分人を、酒の力を借りてさらけ出したから恥ずかしい?」・・・うーむ、いささか手応えに乏しい。

 

ならば、「無礼講にかこつけて、他の人を傷付けたかも知れないから不安?」・・・これもなんか違う、という手応えだ。

 

では、「不安というより、楽しくて盛り上がった時間の揺り戻しでさみしい?」・・・これは、少しだけ近い。でも寂しさを今は抱いているかというと、これもまた違う。

 

ここで一旦、そもそもの仮説を疑ってみる。「不安な気持ちを抱いているという前提がおかしいのではないか?」

 

例えば、僕は酔うと、自分では陽気になると感じている。その状態のまま寝てしまうと、そのテンションから一気に覚めたところに落っこちてしまう。

 

ならば、普段の自分とはかけはなれていると自己認識している自分から、一気に平素の自分に戻る落差への戸惑い、という仮説も立たないだろうか。

 

しかしながら、こうしてKeepメモに書いている間に、不安だとラベリングしている何かは完全に消えてしまった。腹落ち感が得られる前に消えてしまい、拍子抜けだ。

 

つまり、なんだったんだろう?こんな風に、起きてからの数分程度で消えるから、有難いとも言えるし厄介ともいえるのだ。

 

その後しばらく経って、自分の中に「もしかして?」という、また別の仮説が立ち上ってきた。

 

酔っているときの人格は、シラフになってから検証ができない。つまり、酒席の振る舞いについて、振り返りも反省もできず、永遠に「酔った自分」の正体がわからない

 

だから、酔ったときの自分がどんなものなのかわからないのに加え、わからない人格が酒席で何をしているかもわからない。だから、不安である。

 

・・論理的にはスッキリだが、ではこれはどうすれば克服できるのだろう。そう思ったので、冷や汗を流しながら、「酔った俺ってどんな感じ?」と友人にLINEしてみた。

 

すると、「途中から好きなゲームと思い出話Botになる」と言われて、マジで恥ずかしさから、顔から火が出るかと思った。

 

すなわち、「あの頃はよかった」おじさんに片足を突っ込んでいる。それに気づいたとき、本当に飲み方や発言を考えようと、猛烈な羞恥心が沸いてきている。

 

もっとも、その会のメンツが基本同級生だからこそ、共通の話題としてその辺を出しているのだろうが・・。まあ、場合によりけりというところか。

 

酔った僕は、思い出の住人と化している。そういう一端が認識できただけでも、結構不安感は和らいだことを、ここに書いておく。

 

仮説2:良いことがあれば悪いことが起きるという価値観のせい。

 

宴会の次の日に不安になる理由として、もう1つ心当たりがあるのは、僕自身の価値観だ。

 

実際、ルーツはどこにあるのかはわからないが、僕は「良いことは悪いことの根源」だと、強く信じている

 

禍福は糾える縄の如し、とか、楽あれば苦あり、とか、そういう言葉に僕は強く共感する。実際その通りに出来事が起こるように感じ、先人たちの知恵の凄さを感じている。

 

もっとも、全てがその通りになるというのは、何かしらの認知バイアスが掛かっているだけだ。つまり気のせいか、歪められた意識なので、アテにならないということだ。

 

もちろんこれ自体は自省として悪くない構え方だが、度を越すと、今を楽しめなくなる。楽しい状況下でも将来の不幸に意識が向いてしまい、いずれ不都合が増えてくる

 

ならば、この信念が強すぎることが、僕における宴会の次の日の不安に繋がってるのではないか?仮説1より、すごく「なるほど」感が大きい。


宴会が楽しい。ならばその揺り戻しとしてやってくる、悪いことは一体何だ?それはいつ来る?・・・という妄想的な恐怖を、僕は不安に感じているのではないか

 

すごく闇も根も深そうな課題だが、ここを克服するヒントは、最近読み終えた【歴史思考】にあると感じている。

この本では、「短いスパンや一面だけを見て、絶対的な価値観があると信じて近視眼的になるのをやめませんか?」的な提案が説かれている。これはすごくいいヒントだ。

 

僕は「良いことの後には悪いことがある」というフレーズの”後”が意味する時間軸を、おそらく大体数日~2週間くらいのスパンで考えている。

 

そのスパンで見れば、確かに人生、良いことの後には悪いことがある、と考えても、差支えが無いかもしれない。だがそれが実態を映しているかどうかは、話が別だ。

 

こういうとき、僕は二次関数のグラフをよく頭に思い浮かべる。原点から1~2点取ったときと、原点から遠いところから1~2点とったときとでは、全然線が違う。


しかしながら、原点から20個くらい点を取って繋げてみると、見えてくるグラフの性質がまた異なってくる。そしてそちらの方が実像に近くなるのだ。

 

そもそも、良いことと悪いことの区別は極めて曖昧だ。例えば高校受験に受かればそれは良いことだろうが、進学先で人生を狂わせる悪者と出会うことにもなり得る。

 

その場合は、受験したことも、それに向けて勉強したことも、全てが「悪いこと」に転じてしまう

 

人生をオセロのようなものと考えたら、白と黒は目まぐるしく入れ替わる。現時点で僕にとっての「良いこと(思い出)」も、十年先にはわからない。逆もまたそうだ。

 

「良いことの後には悪いことがある」というのは、それこそ例えば「朝の後には夜が来る」といったフレーズと同じくらい、「だから何?」という話なのかもしれない。

 

そう考えると、僕の抱いている不安感の正体は、そもそも結論を出すまでが短すぎるという思考の偏りのせいなのかもしれない。

 

誰のセリフか忘れたが、ある長寿の人がその秘訣を求められ、「気を長うお持ちなされ」と返したという逸話を思い出した。

 

僕も気を長うもって、宴会をもっと当事者として、そして現在の時間軸で、純粋に楽しみたいと思う。

 

僕の未知にだいぶラベリングができたと思うが、これが合っているか、間違っているか。正直、現時点ではどうでもいい。

 

では今日はこの辺で。

 

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